記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月30日

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8月30日の太宰治

  1947年(昭和22年)8月30日。
 太宰治 38歳。

 八月に書かれた、山崎富栄の日記。

「僕の内臓の一部のような気がする」

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)8月に書いた、6日分の日記を紹介します。

 まずは、8月22日の日記からです。この前に書かれた日記の日付は、7月30日の記事で紹介した、7月23日なので、富栄は約1ヶ月間、日記を書いていなかったようです。

八月二十二日

 宮崎さん、北山さん、別所さんお見えになる。二十日ひる。石井さんを御案内して、御一緒に西山方へ伺ってから泊り、二十一日も、”泊ろうよ””ええ、泊りましょう”と居つづけたら、夕方野原さんがみえた。その前に、”野原が今ここへきても僕は驚かないね”などとお話ししていたやさきのこととて。三人で泊る。
「サッちゃんて言わなかったね、野原は」
「泊るなら飲みますなんて言ったね、あいつ」
――あまりお体の御様子が快くはいらっしゃらないけど、私にはどうしようもないんですもの。
「君が悪いんだよ。いなかったんだもの。やけくそだったんだ。吉祥寺でウィスキーを一本飲んじゃってね」
 だからいないと心配なの。あのときは仕方がなかったんですもの。それにちゃんと日を決めてお話して差し上げたのに、それでなくてさえ御丈夫なお体でもないのでしょうに、ひどい。宮崎さんには前にも一度お目にかかっていたので、それにあのとき太宰さんと御一緒だということが、とても楽しそうにみえましたので、お休みになりますなららと、ちょっとお上げする。千草からビールと焼酎を持参する。失礼だなあと感じたところもあったけど、まあまあと。
「先生は近ごろあまり書きすぎますね。自殺するんじゃないかと思うんだ」
 と北山さん。胸をつかれる。毎日が死との闘争。一字一句が死との闘い。太宰さんを、一面ずつ知っていくことは悲しいけれど、近づいていく喜びもある。
「貴女このごろ、顔の色がよくありませんね」と野原氏。
 よくありませんとも。死んでしまうまで、誰にも、なんにも知られたくない。そしてまた誰も、なんにも知らないでいる深い理由を。死んでしまって、誰にも分からないことだらけ。二人だけで沢山だ。

 「西山方」とは、三鷹上連雀808番地にあった西山家のことで、ここの八畳間を借り、この頃、仕事部屋として頻繁に使用していました。三鷹における太宰の仕事部屋については、2月3日の記事で詳しく紹介しています。

 小料理屋千草は、富栄の部屋から道路を挟んで向かいにあり、歩幅にして約10歩程度の距離しかありませんでした。

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■富栄の部屋と小料理屋「千草 「永塚葬儀社」の看板がある2階の建物が富栄の下宿先。道路を挟んで向かいが「千草」。道の突き当りが、玉川上水。1948年(昭和23年)撮影。

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■ほぼ同じ地点から撮影した現在の写真 2020年、著者撮影。

 続いて、8月24日の日記です。

八月二十四日

 おひる近く、コンテと帰ってくる。朝、太宰さんがおみえになられた由。買物籠を下げてみえました、といつにない小母さんの顔。やっぱりお見えになったと、泊ってきたことを残念に思う。出張先から帰ったら、コンテさんが千草に来ていらっしゃるという。
 和服姿の良人を改めて二階へお通しする。三人で飲む。宮崎、北山、別所さん達のことをお話ししたら叱られてしまった。
「君の気持ちはは分かるよ、でも、断わんなさいよ。第一失敬だよ。かりに僕の妻じゃないか。僕は不愉快だな」
 ごめん、ごめん、ごめんなさい。コンテさんも太宰さんと一緒になって、”貴女、駄目ね”なんて言うんで、苦笑する。
「遊んでやって下さいよ。この人の良いところは、人の悪口を言わないことね。僕は随分言うけど。この人の言うのはまだ一度もきいたことがないよ。君は

いい友達をもっている。幸せだよ。僕にはない」
 いやいや、悲しいお言葉ばかり、帰るコンテさんを送って御一緒に吉祥寺までいき、西山へ泊る。
 さっきは、珍しく遊んでやって下さいと、度重ねて仰言ったお言葉が少し気になっていたけれど、その意味が分かった。独りで死ぬと仰言るの。
「駄目だよサッちゃん。十月まで()たないよ。憔悴しちゃったよ。寝なきゃあならないんだ」
「誰か、いい人を見つけて、幸せにおなり」
「いい人なんて、結婚する相手なんて、あなたより他にいやしないのに」
 泣いて、泣いて、泣いてしまう。
「ごめんね。僕はつらいんだよ。別れている間が――。どうして君と一緒にいると、安心なんだろうなあ。不思議だなあ」「……」
「ね、色恋なんていうんじゃなくて、何か、同じもので結ばれているというところがあるね。僕の内臓の一部のような気がするんだ。だから、いつでもそばにいてくれないと苦しいんだよ」
「ウン、同じ血が流れているような気がするの。妹でもいいから、津島家へ生まれてきたかったなあ」
「君の、そのウン、ていうの大好き。あばたもえくぼだ」
「サッちゃんに惚れちゃった」「いやいや、また始まる……」
 太宰さんを待って、嫁がずにいられる女の方のお話も再度耳にした。女の方が御気の毒で涙が出る。二人で随分泣いてしまう。私達二人とも、いままで人の前なぞ、泣顔みせたこともないのに。そして自分達の苦しみごとなども。
 何故こう私達は悲しいのだろう。泣いた。泣いた。
「私、別にお知らせ致しませんけど、先に逝きます」
「駄目よ駄目よそんな」
 しっかり抱き合って、あなたが死ぬなら私も死ぬ。わなたのいない世の中なんて、なんの楽しみがあるものか。
「御一緒に連れていって下さい」
「ごめんね、サッちゃんを頂きますよ」
「うん、頂くなんて。お願いします。お供させて下さいね」

 「コンテさん」とは、富栄の友達・宮崎晴子のニックネームで、富栄の日記にも度々名前が登場します。

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玉川上水沿いに佇む太宰 1948年(昭和23年)2月23日、撮影:田村茂。

 次は、8月28日の日記です。

八月二十八日

 今日でもう三日目。二十六日のひるま、西山方を出た道端で太宰さん吐く。お酒のカクテルをしたためでしょうか。御体が本当に弱られたのだな、と責任もある私の体。痛ましい気持ちがして、ごめんなさいと心で詫びる。
「少し我儘なさって。養生なさって下さいね」
「有難う」と九月十二日までのお別れ。
病気したら承知しねえぞ、なんて仰言りながら、御自分が先に倒れてしまわれるなんて、御伺いできないじゃありませんか。私いつでも御一緒に逝きます。
 昨夜九時半ごろ裏へ伺ったら、もう雨戸が下りていて皆様お休み。
「ね、思ってね。来てね。ときどきあそこへ来てね」って。垣根の近くまで寄って行ったらまるで新派のセットのような感じの家。お庭先が美しく掃かれていて、心地よい感じ。四畳半。三畳。六畳。お休みなさい太宰さん。鼻血なんぞお出しにならないで。今日、二時ごろお近くまでいく。一つ手前の通りを入って、畑の手前から眺める。お庭へ出てでもいられたら、きっと分かるのに、何故、時間と場所を御約束しておかなかったのだろうと悔まれる。
 昨日も思い出して涙が流れ、本を開いては愛しまれる。
 お別れしてから、急に背中がだるいような気持ち。血を吐きたい。思って下さる? 思って下さるの? 御体大丈夫? 御大事にネ。

   ⁂ ⁂ ⁂

「野原と野平は可愛いよ。ね」
「しかし、ああした雑誌社の空気は人間に悪いね」
「二人ともやめたいって言ってましたわ」
「それがいいね」
 野原さん達は太宰さんの御言葉を、一体どういう心で聞いているのかしら。真面目に、素直に、きいているのかしら、死んでしまう人ですのに。そして、この世で最もいい方でしょうに。駄目よ、しっかりしてよ。卑しい人にならないで下さいね。
 夜半にめざめたら、あなたが夢を見て笑った顔を思い出しました。

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■野原一夫(左)と野平健一(右) 斜陽などを担当した新潮社の編集者。1946年(昭和21年)8月26日、新潮社で700名中2名を採用したのが、野原と野平の2人だった。

 続けて、8月29日の日記です。

八月二十九日

 ちょうどおひる頃、近くまで行ってみました。今日は一つ、奥様に見つかってもいいから、と勇んでお庭の見えるあの横丁に入って、立ってみましたけれど、しーんとしているばかりでした。お昼食時ですから、お話声の一つもおききできるのではないかと存じたのですけど。あまり残念なので、表の方からも入ってみましたの。一寸、体がふるえました。窓も、お玄関も閉まっていました。万一悪化でもなさって御入院なさってしまったのかとも考え、それにしても、そのときには誰かを通じてお知らせくらいのことはあろうからと、考え直し、店へ参りました。
 黄村先生言行録を、また読み返しています。四月、太宰さんの本を初めて求めたころは、御向いにいらっしゃることなどが頭に入っていて、いま読み返してみると随分素通りして読んでしまったと思いました。
 十二日までの永い間、一冊ずつ深くみていきます。本当に十二日にはおいで下さいますね。お体が悪化していらっしゃっても、用意してお待ちいたしております。
 シゲ女が店を開きました。このごろは誰を見ても厭、いや、あなたが悪いのよ。お逢いできないんですもの。
「元から頬が削げていたのが一層削げて、顴骨(かんこつ)ばかり尖り、ゲッソリ陥込む眼窩の底に勢いも力もない充血した眼球が曇りと濁った光を含めて何処か淋しそうな笑みを浮かべて……」
 八時ごろ、野原さんが見える。
”誰も二階へ上げるなよ”
”ええ、お留守中は誰も上げません”
 そう申したのですけど、きっと、太宰さんからの帰り道に違いないと思われたのでお上げする。四迷の書き抜きを、なんの気なしに書いたけれども、その通りの御様子らしい。涙が出そうで困った。臥せっきりらしいと、お食事も余り通らないらしいと。
”もう十日も経てば起きられるよ”と仰言ったとか。十二日のことを言われるのですね。すみません。荷物も大部分整理いたしました。野原さんが、”先生、死ぬなんて仰言ったことありますか”なんて、さりげなく。
 いろいろと御交際ねがった方々に、大変お世話になり、御迷惑をおかけしっぱなしで、私一人だけ幸せを奪っていってしまうようで、すみません。
 はじめは、太宰さんも私も、死ぬという各自の決心が一致しただけでしたけど、この頃は、太宰さんが仰言るように、お互いがお互いの内臓の一部分でもあるかのような一致です。それとなく野原さんに、私の最後を飾ってくれるかもしれない私の写真をおみせしました。奥様のお赦しさえあれば、御一緒に写真だけでも入れて欲しいのです。
 私がいつか、”お友達に骨の一部分でもいいから御一緒に埋めて欲しいッて言ったら、大丈夫、私がお約束しておそばへ埋めてきてあげるわッて言ってくれましたわ”と申し上げたら、”大丈夫ですよ、みんながやってくれますよ、塚でも立ててくれるかも分かりませんよ”と仰言ってらした。あの世の夢を楽しみに逝きますわ。太宰さんと御一緒なら、何処へいっても、少しも怖ろしくなどありません。
 そう、いつだったか、御一緒に横になったとき、あの世のお話をしていて、
”亡くなった兄達が喜ぶでしょうね、私がいったら。そして太宰さんの御両親に御挨拶するときには、まず大きな鯛の御料理をして、皆様に挨拶するわ”
”そうそう、そうするとね、祖母が、ああ、私が料理する、なんていうよ。祖母って、そうなんだ”
”驚きになるでしょうね”
”おや、人が変ってるねッていうだろう”
”サッちゃん、ご免ね、君をもらいますよ”
 いま持っている買物籠、吉祥寺で御一緒に太宰さんに買って頂いたもの。毎日お逢いしていた思い出はつきない。
”十年前に逢いたかったなあ。先輩は、なぜ君を紹介してくれなかったんだろう。同じ本郷に住んでいたのにね”
”だって、それは太宰さんが悪いのよ。自動車なんかで学校に通っていらっしゃったんですもの。もし歩いていらしたら、きっと屋上から帽子の上へ唾が落ちたかも分からないのに――”
 物産の加藤郁子さんには大変々々お世話になりました。失礼でしょうけど、遺品を何か記念に差し上げたいのです。
 宮崎晴子さんにも今度ばかりは御迷惑をおかけしました。御礼の心で記念品を差し上げて下さいませ。
 ほとんど整理品は整理し、洗濯も致してあるつもりですが、汚れた品が残してありましたら、何卒御許し下さいませ。
 太宰さんは私には過ぎたる良人。そして私にはなくてはならない良人でした。
”僕の妻じゃないか”と仰言って下さったお心、忘れません。
”君と一緒になりたかったよ。君をもらった人は幸せだよ”私も十年前にお逢いしとうございました。
 九月四日頃、お訪ねする御約束を野原さんとする。

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三鷹の自宅の庭 撮影:大竹新助。

 最後に、8月30日と8月31日の日記を続けて紹介します。

八月三十日

”私が先生の妹にでも生まれてきていたら”
”ときどき、兄のような気がするのよ”
”そして愛人でしょう”

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■山崎富栄

八月三十一日

 早川さんのお話と、野原さんのお話しに一喜一憂していたところ、今朝八時半頃「奥名さん」の声に飛びおきる。太宰さんだ。蒼い顔して、疲れた御様子で。奥様方が御留守になったので、やめようかと思ったけど、やっぱり呼びにきたよ、と仰言る。
「じゃ、直ぐね」とそこそこにお帰り。早速仕度をして御訪ねさせて頂く。はじめてみるお家の中。お互いに一寸も悲しそうな顔もせず、相変わらずの、サッちゃんと太宰さん。正樹さんが、よちよちと玩具を持って入ってみえる。ヴィヨンの妻の中にある作家の悩みを思い起こさせるようなお子様。失礼かと思ったけど、太宰さんのお子さんを抱えてみたい心が湧いて「抱かせて下さいませんか」と申し上げたら、「いや、これは孤独を楽しんでいる子なんですよ」との御返事。親心としてどんなに悲しいことだろう、と思ったら涙が湧いてきてしまった。
 九時頃から二時まで御話する。午前十時と午後一時には、お互いの心が一致するような気がして、お互いがお互いを思っている以上に恋い合うよう致しましょうと御約束する。おにぎりを作って下さったり、果物を出して下さったり、御本を頂いたり、御写真を拝見したり。まるで今日は夢のような日だった。
「しっかりしなきゃあ、駄目よ。しっかりしてね」「しっかりするよ」「早くいけよ」
――ああ私達にしか通じない言葉。十二日を楽しみに、病人くさい臭いなどなくなってますように、十月には御一緒に旅をしましょう。本当に――。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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