【日めくり太宰治】8月26日
8月26日の太宰治。
1944年(昭和19年)8月26日。
太宰治 35歳。
八月下旬の頃、
太宰と別所直樹 との出逢い
今日は、太宰の弟子・
別所は、1921年(大正10年)、シンガポール生まれの詩人、評論家。原籍地は宮城県。上智大学経済学科を卒業したあと、雑誌編集、新聞記者等を経て、文筆生活に入りました。
それでは、別所の著書『郷愁の太宰治』から、初めて三鷹の太宰宅を訪れた日のエピソードを引用します。
「拝啓 ただいまは御芳著を私へも御恵送下されありがとう存じます。ゆっくり拝誦のつもりであります。困難の秋にも詩情枯らす事なくご精進のほどお祈り申上げます。不乙。」
太宰さんからの、初めての便りであった。昭和十八年八月三十一日の消印である。ぼくはその以前に、太宰さんとお逢いしたことはない。太宰さんはぼくにとって遥かな人であった。
ぼくは詩を書いていた、何処にも発表する宛もなく、ノートに書きためていた。戦争は暗く重くぼくらを押しつぶそうとしていた。ぼくは仙台の第二師団で三ヵ月の教育召集を終えて家に帰っていた。その召集中に、友人が詩集を編んでくれたのである。朝比奈栄次と共著のささやかな詩集「笛と映える泉」を、ぼくは敬愛する太宰さんに献じたのだ。
当時、ぼくは太宰さんの小説を枕頭から離さなかった。荒涼とした侘しい生活を慰めてくれるのは、太宰さんの小説だけだったと言ってよい。太宰さんの文学は、人に生きる力を与える文学だ、と思っている。
ぼくは太宰さんの便りを毎日眺めてくらした。颯爽とした字だった。その字の中に優しさがこもっていた。それでもぼくは太宰さん訪問の決心がつかなかった。母が見かねて、ぼくを追い立てるようにした。そして遂に太宰さんを訪ねることにしたのである。昭和十八年の秋だった。
■万助橋 2020年、著者撮影。
吉祥寺で電車を下り、井之頭公園の森を抜け、万助橋を渡った。流れに沿って山本有三氏の門がある。黒い塀が続いている。幾つかの露路をくぐり、くぐり、やっと太宰さんの表札を見つけだした時の嬉しさをぼくは今でも覚えている。
太宰さんは、ぼくの思っていた通りの人だった。清く、優しい人だった。光りの言葉を投げる人だった。太宰さんは紺のズボンに、紺のジャンパーを着て、丁度仕事の最中だった。津村信夫の追悼文を書きかけておられた。(註・昭和十九年八月刊「津村信夫追悼録・郷愁)」
ロイド眼鏡をかけて、長髪、如何にも詩人でござい、といった詩人を軽蔑する。津村はそんな詩人じゃない。といった意味の文章だった。
――どうですか」
太宰さんは無雑作にその原稿をぼくに渡した。太宰さんは、ぼくの詩集を覚えていらしたのか、年少のぼくを詩人として遇して下さったようである。
――同感です」
とぼくは答えた。当時ぼくは眼鏡をかけていなかったし、髪には油をつけていたから内心ほっとしたのである。間もなく二人は連れ立って家を出た。それから井之頭公園に向った。池の廻りの杉の木は切り倒され、にわか作りの製材小屋も建って、戦争の匂いはここにも立ちこめている。昔、ぼくは父に連れられて公園に来たことがあったが、その頃は、子供の手に届くところで蝉が啼いていたものだ。
■井之頭公園
池の廻りを一周した。
――四時ごろですかね」
――はあ、そんなものだと思いますが」
二人とも腕時計をはめていなかった。公園を出て、埃っぽい道を駅に向う。その途中に、古びた小さな酒場があった。”コスモス”という看板が出ていた。
――小母さん、いる?」
少年は首を振った。
――じゃあ、ちょっと待たして貰おう」
スタンドの椅子に腰かけて、ぼくらは二時間もいたであろうか。
――おそいなあ。日曜だから街にでも出掛けたんだろうけれど」
太宰さんは気にして、二度も三度もつぶやいた。
結局、その日は小母さんが戻らず、ぼくらはやむなく別れた。
それ以来、ぼくは実に屢々 太宰さんをお訪ねした。その時から太宰さんが亡くなる年の正月まで、あしかけ六年に亘る、その時々の太宰さんの言葉を、ぼくは別にノートにとったわけではない。忘れることの方が多かったかも知れない。しかし、ぼくの胸に、いまだに生き残っている言葉の数々を、ぼくは残しておかねばならぬと思う。
太宰さんが亡くなってからも、もう十年以上の歳月が流れている。しかし、太宰さんの文学は亡びない。ぼくの胸に残った太宰さんの言葉は、ぼくが書き残さねば、ぼくの肉体と共に亡びてしまう。
――ぼくの数々の失敗を、全て君に語ろう」
太宰さんは、微笑しながら言った。
――二十歳の時は、三十歳のつもりで生きるんだ。三十のときには四十のつもりで生きることだ」
太宰さんの優しい言葉に、ぼくは一瞬、呆心の態だった。
――嘘でもいいから、優しい言葉が聞きたい。襖の向うで、べろを出していたっていいのだ。見えなければいいんだ。嘘でもいい。優しい言葉が欲しいんだ」
愛とは表現だ、とぼくは思った。
心の中で思っている、なんていうのは嘘っぱちだ……というのが太宰さんの持論だった。
(中略)太宰さんとぼくとの出逢いは、昭和十八年、太宰さんが三十四才、ぼくが二十二才のときであった。二人とも酉年の生れである。
別所は、「太宰さんとぼくとの出逢いは、昭和十八年」と書いていますが、「津村信夫の追悼文を書きかけておられた」というのが事実だとすると、詩人・津村信夫が亡くなったのは、1944年(昭和19年)6月27日なので、別所が書いているよりも1年後ということになります。
【了】
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【参考文献】
・別所直樹『郷愁の太宰治』(審美社、1964年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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