8月25日の太宰治。
1936年(昭和11年)8月25日。
太宰治 27歳。
八月二十五日付で、
川久保屋旅館滞在中の手紙
太宰は、1935年(昭和11年)8月7日から8月27日頃まで、パビナール中毒と肺病の療養のため、単身で群馬県の水上村谷川温泉を訪れ、川久保旅館に宿泊していました。この滞在については、8月14日の記事で紹介しました。
太宰は、この滞在中に第三回芥川賞の落選を知ります。当時の芥川賞には、「前回候補に挙がった作家は候補としない」という条件があり、「太宰と芥川賞」に関する一連のエピソードは、この第三回芥川賞を以って、幕を閉じました。
■谷川橋際の元川久保屋旅館の建物
今日は、太宰が、この川久保屋旅館滞在中に2人に宛てて書いた、2通の手紙を紹介します。
まず、1通目は、太宰が義弟・小舘善四郎に宛てて書いた、8月22日付の手紙です。
群馬県水上村谷川温泉 川久保方より
青森市浪打六二〇
小舘善四郎宛
この地には、私、ひとり、「作品」と「文藝汎論」二年越しの約束の小品、五、六枚、二つ書いています。
月末ちかくまでいます。すぐ、遊びに来たまえ。一日でも早いほどよし上越線水上駅下車、それからバスで、谷川温泉。すぐだ。
君、来るなら、電報で、知らせ、たのむ。この温泉から、日光へ、すぐ抜けられるから、一緒に滝と東照宮拝し、飛島定城一泊は如何?
芥川賞、菊池寛の反対らしい。とうとう極点まで掘って掘って、突き当たった感じ、もちろん、以後、菊池寛研究三昧。
婦人画報社の「奥の奥」なるものより、おかしな注文来た。どんなものかね? へんだね。
大日本雄辯会講談社から、私の身元調査に来た。身長、本籍、学歴、その他一切、作品の果まで。おかしな奴だね。
十月号(九月十日発行)若草「喝采」新潮「創世記」東陽「狂言の神」
ついに、中央公論執筆。しかも二本だて、とか。一本だて。百枚以上。
十月一ぱいで仕上げの約束。「浪漫歌留多」という題、如何?
別紙の絵ハガキの画を、よく、ごらん下さい。どこが致命的の愚劣であるか、ご存じですか? 感受性も豊か、画品も高く、それに何よりも懐かしいリリシズムございます。けれども、さっぱり手ごたえなく、列車窓外の風景ほどにも、押して来ないのは、この作家、対象を甘く見ています、ナメています、おそらくは、よい育ちのゆたかのお金持ちにちがいございません。「自然」は、きびしいものです。対象とルウズの馴合、あぶない、あぶない。口笛吹きながら、頭を軽快に左右に振りながらリズムに乗り、たのしく、まず、きょうは、ここまで、など、ひとりたのしければ、よし、との心境ならば、われら又なにをか言おう、粛然たる賛意表します。けれども欲の深造、後年のこり巨匠たる栄誉は、その心境の新人には、あげられぬ。口笛の態度は、私も君も、ともに祈念理想の境地なれども、こは、七十歳のシヤヴアンヌにして、はじめて許されるものと知り玉え。
冒頭で触れられている「「作品」と「文藝汎論」二年越しの約束の小品、五、六枚、二つ書いています」の2作品は、 雑誌に掲載されることはありませんでした。
また、前回の記事で紹介した、小舘宛のハガキでも「第三回芥川賞」落選についても触れられていましたが、今回も「芥川賞、菊池寛の反対らしい」と書いており、やはり素直に諦めることはできなかったようです。
■太宰と小舘
続いて、2通目は、太宰の処女短篇集『晩年』を出版した砂小屋書房を 、書房主・山崎剛平と共に創立した
群馬県水上村谷川温泉 川久保方より
東京市下谷区上野桜木町二七 山崎剛平方
浅見淵宛
浅見さん。もう、かれこれ一月、山にいます。秋が、たいへん早く来てしまってたまらない気持ちで、行く春をなんとかの浦で追いつきけりという故人のうたそのままに夏、追いかけて、できることなら追いつきたいものと思慕輾轉、身体こがして居ります。酷烈の山の気迫、朝、夕、霧の洪水、むらむら渦巻いてしぶいてゆきます。蜻蛉一匹もいなくなりました。
きびしき一日、にがい一日。
川久保屋旅館で、「きびしき一日、にがい一日。」を送っていた太宰。
このハガキを書いた2日後には、船橋の自宅へ戻っています。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「稀覯本の世界」
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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