記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月25日

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6月25日の太宰治

  1936年(昭和11年)6月25日。
 太宰治 27歳。

 六月二十五日付で、『晩年』が砂子屋(すなごや)書房から刊行された。

処女短篇集『晩年』刊行

 1936年(昭和11年)6月25日付で、処女短篇集『晩年』が、砂子屋(すなごや)書房から刊行されました。
 『晩年』は、口絵写真一葉、初版500部、菊判フランス装、241ページ、定価2円でした。『晩年』に収録された短篇は、1篇1篇、後の太宰作品にも通ずる、様々な趣向が凝らされ、「短篇のデパート」と例えられることもあります。

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■『晩年』の口絵写真 船橋にて。

 太宰は、『晩年』刊行前に発表したエッセイ「『晩年』に就いて」で、「私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った」「私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く」「さもあればあれ、『晩年』一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ」と書いています。
 左翼運動への没頭、3度の自殺未遂、パビナール中毒と、凄まじい日々を送る中で、原稿に向き合い、「自らの遺書」として発表されたのが、処女短篇集『晩年』でした。エッセイ「『晩年』に就いて」の文章からは、太宰の『晩年』に対する、熱く強い想いが感じられます。「私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った」『晩年』出版の10年前というと、太宰が旧制弘前高等学校に入学した、1027年(昭和2年)のことです。

 それでは、1936年(昭和11年)1月1日発行の「文芸雑誌」第1巻第1号に『もの思う(あし)の題で発表された中の一篇で、太宰が刊行前の処女短篇集『晩年』について熱く記したエッセイ「『晩年』に就いて」を全文引用して紹介します。

「晩年」に就いて

 私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい回復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。
 けれども、私は、信じて居る。この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集を出さなければならぬことがあるとしても、私はそれに「歌留多」と名づけてやろうと思って居る。歌留多、もとより遊戯である。しかも、金銭を賭ける遊戯である。滑稽にもそれからのち、さらにさらに生きながらえ、三度目の短篇集を出すことがあるならば、私はそれに、「審判」と名づけなければならないようだ。すべての遊戯にインポテンツになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という灯台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨をからだに巻きつけて入水したいものだとさえ思っている。
 さもあらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ。――一瞬間。ひとは、その生涯に於いて、まことの幸福を味い得る時間は、これは百米十秒一どころか、もっと短いようである。声あり。「嘘だ!不幸なる出版なら、やめるがよい。」答えて曰く、「われは、いまの世に二つとなき美しきもの。メヂチのヴイナス像。いまの世のまことの美の実証を、この世に残さんための出版也。
 見よ!ヴイナス像の色に出づるほどの羞恥のさま。これ、わが不幸のはじめ。また、春夏秋冬つねに裸体にして、とわに無言、やや寒き貌こそ、(美人薄命、)天のこの冷酷極りなき嫉妬の鞭を、かの高雅なる眼もてきみにそと教えて居る。」

 6月22日の記事で、出来上がったばかりの『晩年』を 師匠・井伏鱒二に送付した際、『晩年』の帯の広告文に、井伏の太宰宛の手紙を無断で拝借したことを、手紙文中で謝罪したエピソードを紹介しましたが、帯の裏表紙側に広告文として使用されていたのは、太宰の師匠筋にあたる佐藤春夫が、太宰の親友・山岸外史に宛てて書いた親書でした。

 しかし、檀一雄浅見(ふかし)は、これを書いたのは太宰だと証言していて、『太宰治全集』の書簡集にも、該当の書簡は見当たりません。

佐藤春夫昭和十年初夏、著者と共通の友人、山岸外史に与えし親書。
 拝呈。
 過刻は失礼。「道化の華」早速一読、甚だおもしろく存じ候。無論及第点をつけ申し候。「なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほどの素直なひびきの感ぜられることがある。」という篇中のキイノートをなす一節がそのままうつし以てこの一篇の評語とすることが出来ると思います。ほのかにあわれなる真実の栄光を発するを喜びます。恐らく真実というものはこういう風にしか語れないものでしょうからね。病床の作者の自愛を祈るあまり、慷齊主人、特に一書を呈す。何とぞおとりつぎ下さい。
(五月三十一日夜、否、六月一日朝。午前二時頃なるべし。)
           佐 藏 春 夫
  山 岸 外 史 様
          硯 北

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 ちなみに、帯の最後「佐藏春夫」「藏」「藤」の誤植ですが、初版本の雰囲気が伝わればと、そのまま引用しました。

  太宰は、『晩年』刊行前に発表したエッセイ「晩年」に就いてのほかにも、1938年(昭和13年)2月1日発行の「文筆」にエッセイ『他人に語る』(のちに「『晩年』に就いて」と改題。前述のエッセイとは、同名異作品)を発表したり、1941年(昭和16年)6月20日発行の「文筆」夏季版にエッセイ「晩年」と「女生徒」を発表したり、処女短篇集『晩年』について繰り返しエッセイを執筆したりと、後年にわたり、太宰にとって思い入れのある作品集だったことが伺えます。

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■処女短篇集『晩年』 2019年、著者撮影。

 最近の本は、発行部数が多く、手間がかかるため「検印廃止」となっていますが、昔の本の奥付には、著者が発行部数を確認するために押した印「検印」がありました。もしかしたら、この本に押された印は、太宰が押したかもしれない…と想像すると、とても感慨深いです。

◆『晩年』収録作品については、過去記事で紹介しています!

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
川島幸希『対談資料「太宰治・著書と資料をめぐって」』(山梨県立文学館、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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