記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】檀君の近業について

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『檀君の近業について』
 1937年(昭和12年)、太宰治 28歳。
 1937年(昭和12年)8月13日頃までに脱稿。
 『檀君の近業について』は、1937年(昭和12年)9月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」第三巻第七号に発表された。この号には、ほかに「夏草」(檀一雄)、「檀一雄の小説」(芳賀檀)、「檀一雄の出征を送る」(緑川貢)、「檀一雄への手紙」(高橋幸雄)が掲載された。

檀君の近業について

 檀君の仕事の性格は、あまり人々に通じていない。おぼろげながら、それと察知できても、人々は何かの理由で大事をとって、いたずらに右顧左眄(うこさべん)し、笑いにまぎらわし、確言を避ける風である。これでは、檀君も、やり切れぬ思いであろう。
 檀君の仕事の卓抜は、極めて明瞭である。過去未来の因果の糸を断ち切り、純粋刹那の愛と美とを、ぴったり正確に固定せしめようと前人未踏の修羅道である。
 檀君の仕事のたくましさも、誠実も、いまに人々、痛快な程に、それと思い当るにちがいない。その、まことの栄光の日までは、君も、死んではいけない。
 檀君の仕事は今日すでに堂々のものである。敢えて、今後を問わない。

 

太宰と檀一雄

  今回のエッセイ檀君の近業について」に登場した太宰の親友、檀一雄について紹介します。

 檀一雄(1912~1976)は、小説家。山梨県に生まれますが、これは技師である父の勤務地の関係で、本籍は福岡県。足利中学校、福岡高校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業しました。大学在学中の1933年(昭和8年)に『此家の性格』を「新人」創刊号に発表。これが新聞の文芸批評欄で林房雄によって称賛され、小説家としてデビューしました。また同年、林と同様に『此家の性格』によって檀の小説家としての才能を認めた古谷綱武の仲立ちによって、太宰をはじめ、他の先輩作家との交流もはじまりました。
 さらに同年、同人誌「海豹」三月号に発表された太宰の魚服記、および同誌の四、六、七月号に発表された思い出を読んで、3歳年長の太宰に並々ならぬ才能を感じとった檀は、太宰に会った際、ためらわずに「君は天才です。たくさん書いてほしいね」と言ったそうです。

 1934年(昭和9年)12月には、檀、太宰、山岸外史中原中也らで、同人誌青い花を創刊。「青い花」が創刊号で廃刊となった翌1935年(昭和10年)4月には、日本浪漫派(にほんろうまんは)に合流しました。
 この頃の檀は、未発表のものも含む太宰の小説原稿を預かったりもしていたようで、これが1936年(昭和11年)6月25日に砂子屋書房から刊行された太宰の処女短篇集晩年へと結実していきます。

f:id:shige97:20210627175437j:plain
晩年』初版本復刻版 1992年(平成4年)、日本近代文学館より刊行された「名著初版本復刻 太宰治文学館」。

 檀は、1937年(昭和12年)7月に処女作品集花筐(はながたみ)を赤塚書房から刊行しますが、今回紹介したエッセイ檀君の近業について」は、この花筐(はながたみ)を意識して書かれたと思われます。

 太宰、山岸と3人で「三馬鹿」と呼ばれるほど深い交流を結んでいた檀ですが、1940年(昭和15年)から台湾、中国へ赴くことが重なり、1945年(昭和20年)に帰国後は、妻子とともに本籍地である福岡県へ転居。太宰と檀は、それぞれ別の道を歩むことになっていきました。
 1948年(昭和23年)6月、太宰の死を知った後、檀の遺作である『火宅の人』に結実していくような、波瀾に満ちた生活を送ることになります。

 檀は太宰の死後、太宰との交友関係を小説 太宰治にまとめています。

f:id:shige97:20210718170606j:image
檀一雄

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】