【日めくり太宰治】12月18日
12月18日の太宰治。
1934年(昭和9年)12月18日。
太宰治 25歳。
文藝同人誌「青い花」が発行された。創刊号が出来たのは、十二月十八日頃であったと推定される。
文藝同人誌「青い花」創刊
1934年(昭和9年)12月1日付で、太宰をはじめに、岩田九一、伊馬鵜平(のちの伊馬春部)、斧稜(小野正文のペンネーム)、檀一雄、津村信夫、中原中也、太田克己、久保隆一郎、山岸外史、安原喜弘、小山祐士、今官一、北村謙次郎、木山捷平、雪山俊之、宮川義逸、森敦の18人を同人とする、文藝同人誌「青い花」創刊号が発行され、太宰は『ロマネスク』を発表しました。
実際に「青い花」創刊号が出来たのは、同年12月18日頃だったと推定されます。創刊号が完成した日の夜9時頃、太宰は出来上がったばかりの「青い花」を持って、檀とともに淀橋区下落合4丁目2069番地の尾崎一雄宅を訪ねました。
■「青い花」創刊号
「青い花」に対する太宰の意気込みは凄く、同人に誘った久保隆一郎に宛てた、1934年(昭和9年)9月13日付の手紙には、
この秋から、歴史的な文学運動をしたいと思っているのですが、貴兄にもぜひ参加していただきたく、大至急御帰京下さい。まだ秘密にしているのです。雑誌の名は「青い花」。ぜひとも文学史に残る運動をします。のるかそるかやってみるつもりであります。地平、今官ともに大熱狂です。くわしくは御面談。下手なことはしないつもり。一日も早く御帰京の日を待つ。
と書いています。
■久保隆一郎
また、自伝的小説『東京八景』の中でも、
そのころ、或る学友から、同人雑誌を出さぬかという相談を受けた。私は、半ばは、いい加減であった。「青い花」という名前だったら、やってもいいと答えた。冗談から駒が出た。諸方から同志が名乗って出たのである。その中の二人と、私は急激に親しくなった。私は謂わば青春の最後の情熱を、そこで燃やした。死ぬる前夜の乱舞である。
と書いています。「その中の二人」とは、「三馬鹿」と言われた、山岸外史と檀一雄です。
『東京八景』では、半ばいい加減な気持ちで、友人からの誘いに乗って「青い花」の同人に加わったように書かれていますが、中村地平から話を聞き、同人に参加するために太宰を訪ねた山岸も、この表現は違うと回想しています。
■山岸外史
「青い花」は、太宰自身が発刊を企画し、雑誌名も自分で選び、友人知己に積極的に勧誘を行い、事務的な仕事も引き受けながら「青春の最後の情熱を、そこで燃やした」同人誌でした。
檀も、『小説 太宰治』の中で、
太宰は「青い花」には大変な熱の入れ方で、連日私の処に泊まりこみ何処で見つけてきたのか石鹸の包み紙を大切にもってきたりして、『奥附は、これがいいんだ。随分洒落たもんだろう。』などとすこぶる得意顔だった。
と、当時の太宰について回想しています。
■檀一雄
創刊号を出した後、太宰が木山捷平に宛てた、同年12月18日付の手紙には、
どんなことがあっても、「青い花」をつづけていく覚悟であります。二号の〆切は、十二月三十一日であります。ケッサクを書いて送って下さい。どんなに長くてもかまわないのです。
と書かれており、太宰が続刊を熱望していたことが分かります。
しかし、「青い花」は、太宰の意気込みと続刊の熱望にもかかわらず、「原稿も同人費の集まりも悪」かったため、創刊号を出しただけで休刊になり、第二号が発行されることはなく、ついにそのまま終わってしまいました。
その後、木山捷平、中谷孝雄らの勧誘によって、「青い花」同人のうち、太宰、山岸、檀など8名が、神保光太郎、亀井勝一郎、保田與重郎、中島栄次郎、中谷孝雄、緒方隆によって創刊された「日本浪漫派」(1935年(昭和10年)3月1日発刊)に合流しました。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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