【日めくり太宰治】9月11日
9月11日の太宰治。
1933年(昭和8年)9月11日。
太宰治 24歳。
九月十一日付で、
木山捷平 への手紙
1933年(昭和8年)3月、太宰、古谷綱武らと、同人「海豹」を創刊し、初めて小説『出石』を発表して、小説家としてデビューしました。
太宰が、古谷の家で「海豹」創刊号に発表する『魚服記』の校正をしていたところ、そこに居合わせた木山は、校正が完了して屑籠にまるめて捨てられそうになった原稿を見て、「太宰君、ちょっと待った。その原稿は僕に進呈してくれないか」と声を掛け、「こんなもの、何にするんだい?」と不思議がる太宰に、「君が将来大文豪の列に列した時、我が家の財産にするために保存したいんだ」と言ったそうです。
1934年(昭和9年)には、太宰、檀一雄、中原中也、山岸外史らと、同人誌「青い花」を創刊します。しかし、「青い花」は創刊号で廃刊となり、1935年(昭和10年)4月、「日本浪漫派」に合流していくことになります。「日本浪漫派」創刊にあたり、木山は、中谷孝雄から、太宰、山岸、中村地平を誘い入れるように言われ、太宰を訪問しますが、太宰は「僕は同人雑誌にはくたびれたよ。同人雑誌はもうごめんだ」と言ったそうです。最終的に「日本浪漫派」に参加した太宰は、そこに『道化の華』を発表しました。
また、木山は、1937年(昭和12年)に高円寺へ引っ越したことをきっかけに、太宰も参加した「阿佐ヶ谷将棋会」(通称:阿佐ヶ谷会)を発足させます。この阿佐ヶ谷会は、「中央沿線に住む文士連が、適当な時期に午後一時頃から夕方まで将棋をさして、夜は酒を飲む会」でした。
阿佐ヶ谷会での太宰の活動の様子については、2月5日や3月15日の記事で紹介しています。
それでは、1933年(昭和8年)9月11日付で、太宰が木山に送った手紙を紹介します。
■木山捷平 書斎にて。
東京市杉並区天沼一ノ一三六 飛島方より
東京市杉並区馬橋四ノ四四〇
木山捷平宛
拝啓
その後御ぶさた申しています。お伺いもいたさず失礼申しました。そのうちぜひお伺いしようと思っています。「海豹」九月号、一昨日、小池氏から一部もらいました。貴兄の創作を拝読しました。
ひとはなんと言われたか知れませんが、私は、あれでいいと思いました。立派だと思いました。
「出石」、「うけとり」、と進まれた貴兄の足跡がとうとう頂上にたどりついたと存じました。ひとつの山を征服された貴兄が、すぐまた、目前のより高い山を睨んでいることを信じます。また、そのゆえにこそ「子への手紙」が尊いのだと存じられます。
塩月兄のも、たいへんよかったと愚考いたします。彼氏の取組んでいる山は、ずいぶん大きいのに好意が持てます。頑固に、執拗に、ひとつの山と取り組んでいます。あの山を征服したら、たいしたものと思います。今月のは、なまなかに筋 など作らず、ひたむきにあの女のひとの情熱を追及して行ったら、より成功したのではないか、と考えています。
私も少しずつ勉強しています。よい仕事をしたいと思っています。また、ひとの立派な仕事にも接したいと思っています。よい作品を書きたいし、また読みたいと念じています。私は二瓶氏の先月の作品に興味を持ちました。いまにいゝものを書くひとだと期待していますが、どうでしょう。先月のは出来があまりよくなかったようですが、筆にねばりけがあって、力強く感じられました。
そのうち私もお伺いいたしますが、貴兄もおひまの折お遊びにおいで下さい。
まずは恥かしい愚見をさらして、しつれいいたします。
塩月兄にもよろしく。
太宰 治
木山捷平兄
同人雑誌「海豹」九月号に掲載された木山の創作が、『子への手紙』でした。
「塩月兄」とは、
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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