記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月2日

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6月2日の太宰治

  1947年(昭和22年)6月2日。
 太宰治 37歳。

 六月二日付で、伊馬春部(いまはるべ)宛に手紙を送る。

太宰作品のNHKラジオ放送

 伊馬春部(いまはるべ)(1908~1984)は、福岡県生まれの劇作家、放送作家。太宰の無二の朋友(ほうゆう)で、戦前から戦後にかけて、ユーモア小説やラジオドラマなどの分野で活躍しました。
 1932年(昭和7年)から、新宿の軽演劇劇場ムーラン・ルージュの座付き作者となり、「閣下よ静脈が…」「桐の木横丁」などを発表するとともに、太宰や檀一雄今官一らと同人「青い花」にも参加しました。1948年(昭和23年)、NHKで放送された連続ラジオドラマ「向う三軒両隣」で、連続ラジオドラマのパイオニアとなりました。

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■太宰と伊馬 三鷹のうなぎ屋「若松屋」の前で。

 まずは、1947年(昭和22年)6月2日付、伊馬宛の手紙を引用して紹介します。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都目黒区緑ヶ丘二三二一 伊馬春部

 拝復 先日は御苦労様でございました。
 また、ウチの若いものたちが、おいそがしい舞台稽古参観などにのこのこ出かけてお邪魔したとか恐縮に存じます。でもかれら二人の報告を聞くに、「やはり伊馬さんは立派だった。いいひとだった。態度がキレイであった。なぜなら、我々がおっかなびっくり参上し、伊馬さんから他人あつかいを受けるものと覚悟していたのに、かえって向うのほうから、何のエラぶるところもなく気軽に、やあいらっしゃい、先日はしっけいと笑いながらおっしゃって下さったのには、我々じつに感激した。」という事で、私も、そりゃそうだろう、あのひとは僕の実に古くからの親友でね、と貴兄のノロケみたいなものを一席開陳しました。
 さて、あの夜のラジオ、あの夜は酒も飲まず家にいて家のラジオにしがみついていましたが、いかんせん安物ラジオで、第二放送は、耳を押しつけてやっと(かず)かに聞き取れるくらい、まことに心細く、それで、何も申し上げる事はありません。ただ、野中教師、私の家のラジオのせいか、ひどく老人じみた感じで、立派な口髭(くちひげ)のある老朽教師みたいな顔が浮んで来ました。女優のほうが、うまかったんじゃないですか。
 聞いた人からの批評は、「すこしむずかしすぎる」というのが圧倒的に多いようです。でも、これは、仕方がありません。こんどは、もっとむずかしいのをやりましょう。
 また三鷹へ来て下さい。こんどは泊りこみを覚悟でいらっしゃい。
 同封のもの、金木のほうから私のところへ逆送されて来ましたが、どうしたらいいのか。もし貴兄、放送局へおいでの時に、かかりの者に払い込みの仕直し出来るなら、そうするよう言いつけてみて下さいませんか。
 どうにもならなければ、捨てる他ないでしょう。一つのはもう受取り期限が過ぎているんですが。それから、これからの支払いも三鷹のほうへ送るよう言ってやって下さいまし。      敬具。

  手紙に出て来る「あの夜のラジオ」とは、5月27日に、伊馬の脚色演出、(いわお)金四郎の主演で、NHKで1時間にわたってラジオ放送された、太宰の戯曲春の枯葉のこと。
 5月24日、このラジオ放送の直前打合せのため、伊馬と巌は、「千草」で飲んでいた太宰の元を訪れています。この日の様子は、5月25日の記事で紹介しています。

 また、手紙の冒頭に書かれている「ウチの若いものたちが、おいそがしい舞台稽古参観などにのこのこ出かけてお邪魔した」とは、新潮社の担当者・野原一夫と、太宰の愛人・山崎富栄春の枯葉舞台稽古の参観へ行ったことを指しています。ここに、太宰は同行していなかったようです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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