記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月1日

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6月1日の太宰治

  1936年(昭和11年)6月1日。
 太宰治 28歳。

 六月一日付発行の「文藝」六月号に「悶悶日記(もんもんにっき)」を発表した。

悶悶日記(もんもんにっき)

 今日は、太宰のエッセイ悶悶日記(もんもんにっき)を紹介します。
 『悶悶日記(もんもんにっき)』は、1936年(昭和11年)6月1日付発行の「文藝」第4巻第6号の「文芸的な・文学的な」欄に発表されました。この欄には、ほかに「三畳独語」(矢田津世子)、「わが覚悟に聴く」(竹森一男)、「もやもやとしたもの」(本庄陸男)、「戯曲とテーマ」(真船豊)が掲載されていました。

悶悶日記(もんもんにっき)

 月 日。
 郵便受箱に、生きている蛇を投げ入れていった人がある。憤怒(ふんぬ)。日に二十度、わが家の郵便受箱を(のぞ)き込む売れない作家を、(あざけ)っている人の為せる仕業(しわざ)にちがいない。気色あしくなり、終日、臥床(がしょう)

 月 日。
 苦悩を売物にするな、と知人よりの書簡あり。

 月 日。
 工合わるし。血痰しきり。ふるさとへ告げやれども、信じて()れない様子である。
 庭の隅、桜の花が咲いた。

 月 日。
 百五十萬の遺産があったという。いまは、いくらあるか、かいもく、知れず。八年前、除籍された。実兄の情に依り、きょうまで生きて来た。これから、どうする? 時産んで生活費を稼ごうなど、ゆめにも思うたことなし。このままなら、死ぬるよりほかに路がない。この日、濁ったことをしたので、ざまを見ろ、文章のきたなさ下手くそ。
 檀一雄氏来訪。檀氏より四十円を借りる。

 月 日。
 短篇集「晩年」の校正。この短篇集でお仕舞いになるのではないかしらと、ふと思う。それに決まっている。

 月 日。
 この一年間、私に就いての悪口を言わなかった人は、三人? もっと少ない? まさか?

 月 日。
 姉の手紙。
「只今、金二十円送りましたから受け取って下さい。何時も御金のさいそくで私もほんんとに困って居ります。母も金の方は自由でないのです。(中略。)御金は粗末にせずにしんぼうして使わないといけません。今では少しでも雑誌社の方から、もらって居るでしょう。あまり、人をあてにせずに一所けんめいしんぼうしなさい。何でも気をつけてやりなさい。からだに気をつけて、友達にあまり附き合ない様にしたほうが良いでしょう。皆に少しでも安心させる様にしなさい。(後略。)」

 月 日。
 終日、うつら、うつら。不眠が、はじまった。二夜。今宵、ねむらなければ、三夜。

 月 日。
 あかつき、医師のもとへ行く細道。きっと田中氏の歌を思い出す。このみちを泣きつつわれの行きしこと、わが忘れなば誰か知るらん。医師に強要して、モルヒネを用う。
 ひるさがり眼がさめて、青葉のひかり、心もとなく、かなしかった。丈夫になろうと思いました。

 月 日。
 恥かしくて恥ずかしくてたまらぬことの、そのまんまんなかを、可人は、むぞうさに、言い刺した。飛びあがった。下駄はいて線路! 一瞬間、仁王立ち。七輪蹴った。バケツ蹴飛ばした。四畳半に来て、鉄びん障子に。障子のガラスが音たてた。ちゃぶ台蹴った。壁に醤油。茶わんと皿。私の身がわりになったのだ。これだけ、こわさなければ、私は生きて居れなかった。後悔なし。

 月 日。
 五尺八寸の毛むくじゃら。含羞(がんしゅう)のために死す。そんな文句を思い浮べ、ひとりでくすくす笑った。

 月 日。
 山岸外史氏来訪。四面そ歌だね、と私が言うと、いや、二面そ歌くらいだ、と訂正した。美しく笑っていた。

 月 日。
 語らざれば、うれい無きに似たり、とか。ぜひとも、聞いてもらいたいことがあります。いや、もういいのです。ただ、――ゆうべ、一円五十銭のことで、三時間も家人と言い争いいたしました。残念でなりません。

 月 日。
 夜、ひとりで便所へ行けない。うしろに、あたまの小さい、白ゆかたを来た細長い十五六の男の児が立っている。いまの私にとって、うしろを振りむくことは、命がけだ。たしかに、あたまの小さい男がいる。山岸外史氏の言うには、それは、私の五、六代まえの人が、語るにしのびざる残忍を行うたからだ、と。そうかも知れない。

 月 日。
 小説かきあげた。こんなにうれしいものだったかしら。読みかえしてみたら、いいものだ。二三人の友人へ通知。これで、借銭をみんなかえせる。小説の題、「白猿狂乱。」

 エッセイ中に出て来る『白猿狂乱』という小説は、残っていません。

 このエッセイが書かれたのは、1936年(昭和11年)4月末から5月はじめの頃。この年の2月10日、太宰はパビナール中毒療養のために、済生会芝病院に10日間入院していました。この時の経緯や様子については、2月10日、2月14日の記事で紹介しています。

 芝病院の退院から約1ヶ月後、太宰は再びパビナールを自ら注射するようになていたといいます。この時期の、太宰のパビナール購入にまつわるエピソードや、太宰は「本当にパビナール中毒だったのか?」という考察について、3月12日、4月4日の記事で紹介しています。

 太宰は、自分の仕事の記録として「創作年表」を作成していました。この「創作年表」は、太宰没後、「著作年表」を作成する前の(もと)にもなっています。
 随筆は、全て「随想」とだけ書かれ、「創作年表」にはタイトルが記入されていないため、初めて全随想集を編集する際には、この「創作年表」に記載してある随筆のタイトルを、発表誌と年月か、号数と、枚数とから探り当てる作業が必要だったといいます。
 今日紹介した『悶悶日記』は、例外的に「創作年表」にタイトルが書き入れられており、「これは捜してほしい」と添え書きがしてあったそうです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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