記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月19日

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10月19日の太宰治

  1936年(昭和11年)10月19日。
 太宰治 27歳。

 太宰の入院中の三十一日間、毎日「看護日誌」が記録されている。

東京武蔵野病院入院中の太宰①

 1936年(昭和11年)10月13日、太宰はパビナール中毒療養のため、北芳四郎(きたよししろう)らの手引きによって、東京武蔵野病院に入院しました。

 太宰入院中の様子については、東京武蔵野病院の副院長で、太宰の担当医師に任命された中野嘉一(なかのかいち)が記した「病床日誌」や、入院中の31日間、看護人・反目(そりめ)によって毎日書かれた「看護日誌」に記録されています。反目は、病棟の看護長で、27、8歳の華奢な男性で、言葉も優しく丁寧だったそうです。反目は、津島修治(太宰の本名)という患者は東京帝国大学中退の良家の息子であるということを聞かされており、ほかの看護人にも、何かと気を遣うように指図していたそうです。

 今日は、中野の太宰治ー主治医の記録で紹介された「病床日誌」「看護日誌」の記述、太宰の師匠・井伏鱒二の回想録太宰 治に収録の『十年前頃』、太宰の親友・伊馬春部のエッセイ桜桃の記に収録の『御坂峠以前』から引用しながら、入院翌日から10月末までの太宰の様子について紹介します。

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■「病床日誌」(カルテ)と「看護日誌」

【10月14日】
<病床日誌>
不安、Arzt(注・医師)ノ診に対シテ苦悶性ヲ発揮ス。
興奮状ヲ呈ス。
顔面紅潮シ落涙スルコトアリ
ネオポンタージン注射

 入院する前の注射が最後だったため、薬の効果が切れ、禁断症状が最も強く現れたといいます。

<看護日誌>
午前中徒然のまゝ読書専念の時を過され格別容態に御変状見受けざりしも午後三時半より苦痛の御様子にて激しく悪感あり 三時十分グレラン二cc施行 脈拍体温普通
注射午後十二時四十分ネオポンタージン20cc
午後一時十分ネオポンタージン20cc
午後三時十分グレラン2cc 四時スパミドール 五時四十分グレラン2cc 八時十分ブロームグレラン二〇cc 摂食睡眠不良 便通軟便

 「不法監禁」「救助タノム」「虐待」などの文字を壁紙やガラス戸に色鉛筆で書きなぐり、中野が看護人と廊下を通ると、動物園のサルのように鉄格子につかまり、「出してくれ」と怒鳴ったそうです。

※スパミドール(ラジウム製薬)は、当時、慢性麻薬中毒の治療に用いられた注射薬。「ヒドロコルタニンとピラミドンの化合剤で、コデインモルヒネの代用剤として、禁避現象なきため慢性モルヒネ中毒及至パビナール中毒なのど治療に用うるに便なり」とされていたそうです。

【10月15日】
<看護日誌>
稍々(やや)苦痛の態を見受くも格別特筆すべき御容態なし 終日床上に横臥徒然なるがまゝ雑誌等専念に読まれ無聊(ぶりょう)の時を御過しに相成られたり
施行注射 午前八時ニ十分 グレラン2cc施行 十時ニ十分スパミドール2cc 午後一時五分ネオポンタージン20cc施行 摂食睡眠良

<井伏『十年前頃』
 病院長より北芳四郎(きたよししろう)氏へ電話あり。患者太宰治は自殺のおそれあり、故に監禁室に移し看視人をつけたいと諒解を求むる電話なり。北氏承諾せり。初代さんよりの報告なり。

【10月16日】
<病床日誌>
強制的ニ入院サセレ(ママ)タト云イ、恨ンデ居ルト
Gefühl labil(注・感情転換性)カナリ誇張的(苦悶性)
苦シクナリ、死ニタクナリマス
病識ナシ、自重シテ治ソウトセズ

 回診する院長や中野に面と向かって「インチキ病院、インチキ医者、退院したら警察に訴えてやる」などと脅し文句を並べたりしたそうです。

<看護日誌>
午前九時よりニ十分間苦痛の御様子にて悪感ありしのみ 他に格別特筆すべき御異見受けず 相変らず読書に専念の時を御過し相成られたり
施行注射 午前七時グレラン午後二時ネオポンタージン20cc 午後三時ズルホナール服薬

<井伏『十年前頃』
 初代さん、病院に見舞に行きたる由。但、面会謝絶なり。
 文芸春秋社佐佐木茂索氏を訪ね、太宰入院の旨を告げ、原稿の件につき諒解を求む。佐佐木氏、快諾す。

<伊馬『御坂峠以前』
井伏さんをお訪ねする。いよいよ武蔵野の病院へ入院した事をきく。きちがい病院に監禁された太宰を考えるとき暗然たるものがあるが、パビナール中毒がこれで根絶できるとすれば止むを得ない。


【10月19日】

 嘔吐あり、左胸部に激痛があった。午後3時発熱38度1分。
 麻薬中毒の治療薬であるスパミドール注射(Spamidol)は、この日(入院7日目)まで行われました。その後は、不安、悪心、下痢などの禁断症状もなく、平静になったそうです。

【10月20日】
<井伏『十年前頃』
 中毒次第に薄らぎ、全快保証す、と院長診断を下したる由。北さん並びに初代さんより報告。

 この日以降、30日まで注射施行はありませんでした。

 

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東京武蔵野病院

 

【10月21日】
 苦痛があった。

【10月22日】
<伊馬『御坂峠以前』
午前中、道で井伏さんに会う。太宰さかんに暴れているそうだ。

【10月23日】
 気分爽快に1日を過ごす。30分間運動施行。

【10月25日】
<病床日誌>
平静トナリ病識相当アリ
注射ノ要求ナシ
尚オ不眠ヲ訴ウ

 終日読書に専念。
 この頃、自殺未遂で入院していた太宰の義弟・小舘善四郎は篠原病院を退院。周囲の勧めで帰省し、間もなく、浅虫温泉にある小舘家別荘に行き、卒業作品の制作に取り組みました。

【10月27日】
 気分爽快の態で、他患者と漫談に打ち興じ、呵々哄笑。
 この「他患者」とは、「隣室の一年前から入院していた甲府の石原という老人」。石原老人は、「太宰退院後、間もなく、話相手もなく憂鬱がひどく、便所にて縊死した」といいます。

【10月29日】
<病床日誌>
不眠アリBrust(注・胸部)ヨリノAbend fieber(注・夕方熱)認メラル

 不眠のため睡眠剤(カルモチン、ベロナール)は投与されていましたが、注射の要求もなくなり、平静となりました。中野は「ここでパビナール中毒は全治したと認められる」と判断しています。
 入院以来、毎日、午後に微熱が続いていたそうですが、これは「結核性のものと認められる」と中野は診察しています。

<井伏『十年前頃』
 初代さん、太宰宛に来た手紙二通を持って相談に来る。一通は新潮社より、新潮社新年号に小説を書けという手紙なり。他の一通は、改造社より、改造新年号に小説を書けという手紙なり。
 院長に頼み太宰に執筆できるよう、取りはからうがよろしいと小生答える。

 

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■太宰と小山初代



【10月30日】
<井伏『十年前頃』
 初代さん北氏を訪ね、新潮社・改造社の手紙を見せて相談す。北氏、小生の意見に大反対の由。故に、拙者愚妻に命じ、両誌編集者に太宰の家内という口上にて電話をかけさせる。只今、太宰は入院中につき、健康の恢復次第、執筆のつもりと申込む電話なり。
 新潮社の方は楢崎勤氏、電話口に出で「どうかお大事に。正月号ですから、まだまだ日数があります」との返事なる由。改造社の方は大森直道氏不在にて、鈴木一意氏、電話口に出で「いろいろ話したいことがありますので、では、こちらから病院に訪ねます」との返事なりと云う。
 初代さんは電話をかけるのがへたくそとて、断じて電話をかけない女性なり。(けだ)し、北国弁を恥かしがるによる。故に愚妻をして代理役をつとめさせる。

【10月31日】

少量嘔吐あり、午後9時発熱38度9分。

中野は、「こういった急性の発熱についてはその原因が精査されていないが、進行性の結核性病変が考えられる。」と言及しています。

  太宰の入院生活は、翌11月12日まで続きます。

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 【了】

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【参考文献】
中野嘉一太宰治ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫、1981年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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