記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月20日

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10月20日の太宰治

  1934年(昭和9年)10月20日。
 太宰治 25歳。

 淀橋区上落合二丁目八百二十九番地尾崎一雄宅での「青い花」創刊号の相談会に出席した。

太宰と中原中也

 1934年(昭和9年)、太宰は文芸同人誌「青い花」の創刊に注力していました。
 同年10月6日、午後7時から、銀座「山の小舎」で同人の初顔合わせが行われたことは、10月6日の記事で紹介しています。

 1934年(昭和9年)10月20日、太宰は、「青い花」同人であり、太宰、山岸外史と並んで「三馬鹿」と称された、淀橋区上落合2丁目829番地尾崎一雄方の檀一雄宅で、「青い花」創刊号の相談会に出席しました。
 今日は、檀の小説 太宰治から、この頃の様子を引用して紹介します。

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檀一雄

 太宰は『青い花』には大変な熱の入れ方で、連日私の処に泊りこみ何処で見つけてきたのか石鹸の包み紙を大切に持ってきたりして、
 「奥附は、これがいいんだ。随分洒落たもんだろう」
 などとすこぶる得意顔だった。早速印刷所に廻して凸版にした。表紙裏表紙はたしか今官一が見つけてきた「神曲」の挿絵だったように記憶する。「赤い枠の線を細く」とこれはたしかまた太宰の発案だった。私は中原中也や森敦を同人に推薦し、太宰は斧稜(著者注:小野正文(おのまさふみ)ペンネーム)を、
 「この男はものになるんだ」
 と、しきりに推していた。
 私の家で会った、中原中也からの感銘は、非常に激しいようだった。太宰は、中原をひどく嫌悪しながら、しかし、近づかねばならない、という、忍従の祈願のようなものを感じていた。会うのを嫌がる時には、事実かどうかはなはだ怪しいが、
 「中原とつきあうのは、井伏さんに止められているんでね」
 と、云っていた。
 かりに、井伏さんから処世上の忠告を受けていたにせよ、太宰は守った例がない。したがって、それを口実にするようなことは、未だ遂ぞ耳にきいた事がなかったから、私にはかえって(いぶか)しく思われた。簡単に云ってしまえば、中原を尊敬しなければいけないように自分で思いこみながら、実は中原を嫌っていた。それは、太宰の自惚れと、虚栄心が脅かされるからだ。太宰はつき合い上の悪友は決してこばまなかった。しかし、あの凄絶な中原の酒席の(から)みは堪えられなかったに違いない。
  (中略)

 

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中原中也(1907~1937 山口県吉敷郡下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)生まれの詩人、歌人、翻訳家。詩集『山羊の歌』に収録されている「汚れちまつた悲しみに」ではじまる詩は有名。結核のため、30歳で早逝。

 

 寒い夜だった。中原中也草野心平氏が、私の家にやって来て、ちょうど、居合わせた太宰と、四人で連れ立って、「おかめ」に出掛けていった。初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な、中原の(から)みになり、
 「はい」「そうは思わない」などと、太宰はしきりに中原の鋭鋒を、さけていた。しかし、中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は例の、甘くたるんだような響きになる。
 「あい。そうかしら?」そんなふうに聞えてくる。
 「何だ、おめえは。青鯖が空に浮んだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
 太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。
 「ええ?何だいおめえの好きな花は」
 まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣きだしそうな声で、とぎれとぎれに太宰は云った。
 「モ、モ、ノ、ハ、ナ」云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを浮べながら、しばらくじっと、中原の顔をみつめていた。
 「チエッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に(ふる)うようだった。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合ったのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
 少なくも私は、太宰の救援に立って、中原の抑制に努めただろう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握って掴み合っていた。それから、ドウと倒れた。
 「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散した事を覚えている。いつの間にか太宰の姿は見えなかった。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持って、かまえていた。中原と心平氏が、やってきたなら、一撃の下に脳天を割る。
 その時の、自分の心の平衡の状態は、今どう考えても納得はゆかないが、しかし、その興奮状態だけははっきりと覚えている。不思議だ。あんな時期がある。
 幸いにして、中原も心平氏も、別な通りに抜けて帰ったようだった。古谷綱武夫妻が、驚いてなだめながら私のその丸太を奪い取った。すると、古谷夫妻も一緒に飲んでいたはずだったが、酒場の情景の中には、どうしても思い起せない。

  身長が179㎝あったという太宰に対し、中原は150㎝足らずでしたが、2歳年上で酒癖の悪い中原を、太宰は苦手としていました。しかし、中原の才能に惹かれる一面がありながらも、人間的にはなかなか噛み合わない、という葛藤も、そこにはあったかもしれません。
 酒癖の悪い中原のことを太宰は、「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」と山岸外史に話していました。面と向かって、中原にこれを言えないところが、太宰らしいです。

 【了】

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【参考文献】
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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