記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その一)②

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その一)』②
  -当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)8月23日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号から4回にわたって発表された。
 なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。
 掲載の2回目である1935年(昭和10年)10月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」十月号第七号には、「老年」「難解」「塵中(じんちゅう)の人」「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて」の4篇が掲載。初出誌の本文末尾には、「来月は、病躯(びょうく)の文章とそのハンディキャップということに就いて書く。」と予告が記された。

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「老年(

 ひとにすすめられて、「花伝書」を読む。「三十四五歳。このころの能、さかりのきわめなり。ここにて、この条条を極めさとりて、かんのう((堪能))になれば、定めて天下にゆるされ、めいぼう((名望))を得つべし。(もし)、この時分に、天下のゆるされも不足に、めいぼうも思うなどなくは、如何なる上手なりとも、未まことの花を極めぬして((仕手))と知るべし。もし極めずは、四十より能はさがるべし。それ後の証拠なるべし。さる程に、あがるは三十四五までの(ころ)、さがるは四十以来なり。返返(かえすがえす)この(ころ)天下のゆるされを得ずは能を極めたりとおもうべからず。云々。」またいう。「四十五十。この(ころ)よりの手だて、大方かわるべし。たとい、天下にゆるされ、能に得法したりとも、それにつけても、よき脇のして((仕手))を持つべし。能はさがらねども、ちからなく、ようよう年()けゆけば、身の花も、よそ目の花も失するなり。(まず)すぐれたるびなん((美男))は知らず、よき程の人も、ひためん((直面))申楽(さるがく)は、年よりては見えぬ物なり。さるほどに此一方は欠けたり。この(ころ)よりは、さのみにこまかなる物まねをばすまじきなり。大方似あいたる風体を、安安とほねを折らで、脇のして((仕手))に花をもたせて、あいしらいのように、少少(すくなすくな)とすべし。たとい脇のして((仕手))なからんにつけても、いよいよ細かに身をくだく能をばすまじきなり。云々。」またいう。「五十有余。この(ころ)よりは、大方せぬならでは、手だてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申す事あり。云々。」
 次は藤村の言葉である。「芭蕉は五十一で死んだ。(中略)これには私は驚かされた。老人だ、老人だ、と少年時代から思い込んで居た芭蕉に対する自分の考えかたを変えなければ成らなくなって来た。(中略)『四十ぐらいの時に、芭蕉はもう翁という気分で居たんだね。』と馬場君も言っていた。(中略)兎に角、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて来た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。云々。」
 露伴の文章がどうのこうのと、このごろ、やかましく言われているけれども、それは露伴五重塔一口剣(いっこうけん)などむかしの佳品を読まないひとの言うことではないのか。
 玉勝間(たまかつま)にも以下の文章あり。「今の世の人、神の御社は寂しく物さびたるを尊しと思うは、(いにしえ)の神社の盛りなりし世の様をば知らずして、ただ今の世に大方古く尊き神社どもはいみじくも衰えて荒れたるを見なれて、古く尊き神社は本よりかくあるものと心得たるからのひがごとなり。」
 けれども私は、老人に就いて感心したことがひとつある。黄昏の銭湯の、流し場の隅でひとりこそこそやっている老人があった。観ると、そまつな日本剃刀(かみそり)(ひげ)を剃っているのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸るほど感心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の髭をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう具合の経験の堆積には、私たち、逆立ちしたって負けである。そう思って、以後、気をつけていると、私の家主の六十有余の爺もまた、なんでもものを知っている。植木を植えかえる季節は梅雨時に限るとか、蟻を退治するのには、こうすればよいとか、なかなか博識である。私たちより四十も多く夏に逢い、四十回も多く花見をし、とにかく、四十回も其の余も多くの春と夏と秋と冬とを見て来たのだ。けれども、こと芸術に関してはそうはいかない。「点三年、棒十年」などというやや悲壮な修業の掟は、むかしの職人の無智な英雄主義にすぎない。鉄は赤く熱しているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。私は晩成の芸術というものを否定している。


「難解」


太初(はじめ)(ことば)あり。(ことば)は神と(とも)にあり。(ことば)は神なりき。この(ことば)太初(はじめ)に神とともに在り。万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る。(しか)して暗黒(くらき)は之を悟らざりき。云々。」私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。
 けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、おのおの自己流の角度から、すぱっと()っ(たふりをし)て、その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。


塵中(じんちゅう)の人」


 寒山詩は読んだが、お経のようで面白くなかった。なかに一句あり。
  悠悠たる塵中の人、
  常に塵中の趣を楽む。
  云々。
「悠悠たる」は嘘だと思うが、「塵中の人」は考えさせられた。
 玉勝間にもこれあり。
「世々の物知り人、また今の世に学問する人なども、みな住みかは里遠く静かなる山林を住みよく好ましくするさまにのみいうなるを、われは、いかなるにか、さはおぼえず、ただ人(しげ)く賑わしき処の好ましくて、さる世放れたる処などは、さびしくて、心もしおるるようにぞおぼゆる。云々。」
 健康とそれから金銭の条件さえ許せば、私も銀座のまんなかにアパアト住いをして、毎日、毎日、とりかえしのつかないことを言い、とりかえしのつかないことを行うべきであろうと、いま、白砂青松の地にいて、籐椅子(とういす)にねそべっているわが身を(つね)っている始末である。住み難き世を人一倍に痛感しまことに受難の子とも呼ぶにふさわしい、佐藤春夫井伏鱒二、中谷孝雄、いまさら出家遁世もかなわず、なお都の塵中にもがき喘いでいる姿を思うと、――いやこれは対岸の火事どころの話でない。


「おのれの作品のよしあしをひとにたずねることに就いて」


 時分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。

 

同人誌「日本浪漫派(にほんろうまんは)

  エッセイ『もの思う葦』が掲載された同人誌日本浪漫派(にほんろうまんは)は、太宰も同人として参加していた文芸雑誌です。1935年(昭和10年)3月に創刊、1938年(昭和13年)8月の第二十九号まで毎月刊行。保田與重郎(やすだよじゅうろう)らを中心として、近代批判と古代賛歌を支柱として、「日本の伝統への回帰」を提唱しました。
 1934年(昭和9年)12月に創刊した同人誌青い花が頓挫したままになっていた太宰が、檀一雄たちと日本浪漫派(にほんろうまんは)に合流したのは第三号(五月号)からでした。この号に発表された同人名は、伊東静雄伊藤佐喜雄伊馬鵜平(のちの伊馬春部)、芳賀檀淀野隆三山岸外史木山捷平など、計22名にのぼります。

 同人の1人である中谷孝雄は、青い花から太宰、檀一雄中村地平山岸外史の4人を誘いたかったが、太宰の意向を汲んで、結局は青い花の同人全員を吸収することになったといいます。

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  中谷に誘われた太宰は、書き溜めた原稿の入った袋を用意しており、その中から道化の華を選んで見せたそうです。道化の華は、1935年(昭和10年)5月1日付発行の日本浪漫派(にほんろうまんは)第一巻第三号(五月号)に発表されましたが、原稿自体は1933年(昭和8年)秋頃に脱稿されていることからも、日本浪漫派(にほんろうまんは)を意識して書かれたものではないことは明らかです。
 また、太宰が日本浪漫派(にほんろうまんは)に発表した小説は道化の華のみで、その他は『もの思う葦』碧眼托鉢などのアフォリズムだけでした。
 これらのエピソードから、太宰は日本浪漫派(にほんろうまんは)自体に思い入れがあった訳ではなく、情熱を注いだ青い花が創刊号で頓挫し、作品を発表する場所を求めていたところ、中谷の勧誘のタイミングが偶然に一致したものと考えられます。

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■太宰、山岸外史、檀一雄 「三馬鹿」と呼ばれた3人。
 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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