記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その一)①

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その一)』①
  -当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)7月10日までに脱稿。
 『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号から4回にわたって発表された。
 なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。
 掲載の1回目である1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号第六号には、「はしがき」「虚栄の市」「敗北の歌」「或る実験報告」の4篇が掲載。初出誌の本文末尾には「来月は老年ということに就いて書く。」と予告が記された。

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「はしがき(

 もの思う葦という題名にて、日本浪漫派の機関雑誌におよそ一箇年ほどつづけて書かせてもらおうと思いたったのには、次のような理由がある。
 「生きて居ようと思ったから。」私は生業(なりわい)につとめなければいけないではないか。簡単な理由なんだ。
 私は、この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂いである。けれども、この七篇はそれぞれ、私の生涯の小説の見本の役目をなした。発表の当時こそ命かけての意気込みもあったのであるが、結果からしてみると、私はただ、ジャアナリズムに七篇の見本を提出したに過ぎないということになったようである。私の小説に買い手がついた。売った。売ってから考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。欲がついた。
 「人は生涯、同一水準の作品しか書けない。」コクトオの言葉と記憶している。きょうの私もまた、この言葉を楯に執る。もう一作拝見、もう一作拝見、ちょうがましい市場の呼び声に私は答える。「同じことだ。――舞台を与えよ――私はお気に入りに入るだろう。――こいしくばたずね来てみよ。私は袋の中から七篇の見本をとりだして、もいちどお目にかけるまでのことだ。私はその七篇にぶち撒かれた私の血や汗のことは言わない。見れば判るにきまっている。すでにすでに私には選ばれる資格があるのだ。」買い手がなかったらどうしようかしら。
 私には欲がついて、よろずにけち臭くなって、ただで小説を発表するのが惜しくなって来たのだけれども、もし買いに来るひとがなかったら、そのうちに、私の名前がだんだんみんなに忘れられていって、たしかに死んだ筈だがと薄暗いおでんやなどで噂をされる。それでは私の生業(なりわい)もなにもあったものでない。いろいろ考えてからもの思う葦という題で毎月、あるいは隔月くらいに五六枚ずつ様々のことを書き綴ってゆこうというところに落ちついたのだ。みなさんに忘れられないように私の勉強ぶりをときたま、ちらっと覗かせてやろうという卑猥な魂胆のようである。

「虚栄の市」

 デカルトの「激情論」は名高いわりに面白くない本であるが、「崇敬とはわれに益するところあらんと願望する情けの謂いである。」としてあったものだ。デカルトあながちぼんくらじゃないと思ったのだが、「羞恥とはわれに益するところあらんと願望する情けの謂いである。」もしくは、「軽蔑とはわれに益するところあらんと云々。」といった工合いに手当たりしだいの感情を、われに益する云々ちょう句に填め込んでいってみても、さほど不体裁な言葉にならぬ。いっそ、「どんな感情でも、自分が可愛いからこそ起る。」と言ってしまっても、どこやら耳あたらしい一理屈として通る。献身とか謙譲とか義侠とかの美徳なるものが、自分のためという欲念を、まるできんたまかなにかのようにひたがくしにかくさせてしまったので、いま出鱈目に、「自分のため」と言われても、ああ慧眼と恐れいったりすることがないともかぎらぬような事態にたちいるので、えつだん卓見を述べたわけではないのである。人は弱さ、しゃれた言いかたをすれば、肩の木の葉の跡とおぼしき箇所に、射込んだふうの矢を真実と呼んでほめそやす。けれども、そんな判り切った弱さに射込むよりは、それを知っていながら、わざとその箇所をはずして射ってやって、相手に、知っているなと感ずかせ、しかも自分はあくまでも、知らずにしくじったと呟いて、ほんとうに知らなかったような気になったりするのもまた面白くないか。虚栄の市の誇りもここにあるのだ。この市に集うもの、すべて、むさぼりくらうこと豚のごとく、さかんなること狒狒(ヒヒ)のごとく、凡そわれに益するところあらんと願望するの情、この市に住むものたちより強きはない。しかるにまた、献身、謙譲、義侠のふうをてらい、鳳凰、極楽鳥の秀抜、華麗を装わんとするの情、この市に住むものたちより激しきはないのである。そう言う私だとて病人づらをして、世評などは、と涼しげにいやいやをして見せながらも、内心如夜叉、敵を論破するためには私立探偵を十円くらいでたのんで来て、その論敵の氏と育ちと学問と素行と病気と失敗とを赤裸々に洗わせ、それを参考にしてそろそろとおのれの論陣をかためて行く。因果。
「私は、はかなくもばかげたこの虚栄の市を愛する。私は生涯、この虚栄の市に住み、死ぬるまでさまざまの甲斐なき努力をしつづけて行こうと思う。」
 虚栄の子のそのような想念をうつらうつらまとめてみているうちに、私は素晴らしい仲間を見つけた。アントン・ファン・ダイク。彼が二十三歳の折に描いた自画像である。アサヒグラフ所載のものであって、小島喜久雄というひとの解説がついている。「背景は例の暗褐色。豊かな金髪をちぢらせてふさふさと額に垂らしている。伏目につつましく控えている碧い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も相当なものである。肌理の細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が、薔薇色に透いて見える。黒褐色の服に雪白の襟と袖口。濃い藍色の絹のマントをシックに羽織っている。この()伊太利亜で描いたもので、肩からかけて居る金鎖はマントワ候の贈り物だという。」またいう、「彼の作品は常に作後の喝采を目標として、病弱の五体に鞭うつ彼の虚栄心の結晶であった。」そうであろう。堂々と自分のつらを、こんなにあやしいほど美しく書き装うてしかもおそらくは、ひとりの貴婦人へ(すこぶ)る高価に売りつけたにちがいない二十三歳の小僧の、臆面もなきふてぶてしさを思うと、――いたたまらぬほど憎くなる。

「敗北の歌」

 ()かれるものの小唄という言葉がある。痩馬(そうば)に乗せられ刑場へ曳かれて行く死刑囚が、それでも自分のおちぶれを見せまいと、いかにも気楽そうに馬上で低吟する小唄の謂いであって、ばかばかしい負け惜しみを(あざわら)う言葉のようであるが、文学なんかも、そんなものじゃないのか。早いところ、身のまわりの倫理の問題から話をすすめてみる。私が言わなければ誰も言わないだろうから、私が次のようなあたりまえのことを言うても、何やら英雄の言葉のように響くかも知れないが、だいいちに私は私の老母がきらいである。生みの親であるが好きになれない。無智。これゆえにたまらない。つぎに私は、四谷怪談伊右衛門に同情を持つ者であるということを言わなければならない。まったく、女房の髪が抜け、顔いちめん腫れあがって膿が流れ、おまけにちんば、それで朝から晩までめそめそ泣きつかれていた日には、伊右衛門でなくても、蚊帳を質にいれて遊びに出かけたくなるだろうと思う。つぎに私は、友情と金銭の相互関係について、つぎに私は師弟の挨拶について、つぎに私は兵隊について、いくらでも言えるのであるが、いますぐ牢へいれられるのはやはりいやであるからこの辺で止す。つまり私には良心がないということを言いたいのである。はじめからそんなものはなかった。鞭影への恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである。自己保存の本能なら、馬車馬にも番犬にもある。けれども、こんな日常倫理のうえの判り切った出鱈目を、知らぬ顔して踏襲して行くのが、また世の中のなつかしいところ、血気にはやってばかな真似をするなよ、と同宿のサラリイマンが私をいさめた。いや、と私は気を取り直して心のなかで呟く。ぼくは新しい倫理を樹立するのだ。美と叡智とを基準にした新しい倫理を創るのだ。美しいもの、怜悧なるものは、すべて正しい。醜と愚鈍とは死刑である。そうして立ちあがったところで、さて、私には何が出来た。殺人、放火、強姦、身をふるわせてそれらへあこがれても、何ひとつできなかった。立ちあがって、尻餅ついた。サラリイマンは、また現われて、諦念と怠惰のよさを説く。姉は、母の心配を思え、と愚劣きわまる手紙を寄こす。そろそろと私の狂乱がはじまる。なんでもよい、人のやるなと言うことを計算なく行う。きりきり舞って舞って舞い狂って、はては自殺と入院である。そうして、私の「小唄」もこの直後からはじまるようである。曳かれるもの、身は痩馬にゆだねて、のんきに鼻歌を歌う。「私は神の継子。ものごとを未解決のままで神の裁断にまかせることを嫌う。なにもかも自分で割り切ってしまいたい。神は何ひとつ私に手伝わなかった。私は霊感を信じない。知性の職人。懐疑の名人。わざと下手くそに書いてみたりわざと面白くなく書いてみたり、神を恐れぬよるべなき子。判り切っているほど判っているのだ。ああ、ここから見おろすと、みんなおろかで薄汚い。」などと賑やかなことであるが、おや、刑場はすぐもうそこに見えている。そうしてこの男も「創造しつつ痛ましく勇ましく没落して行くにちがいない。」とツァラツストラがのこのこ出て来ていらざる注釈を(ひと)こと附け加えた。

「或る実験報告」

 人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。

 

太宰治、商業誌デビューまで

  "太宰治"というペンネームは、今回紹介したエッセイ『もの思う葦』を執筆する2年前、1933年(昭和8年)1月頃に決定したと推測されます。

 "太宰治"の筆名で最初に執筆、発表されたのはエッセイ田舎者ですが、エッセイに次いで最初に執筆、発表された小説は、1933年(昭和8年)2月19日付「東奥日報」日曜特集版の別題号付録「サンデー東奥」に掲載された短篇列車でした。
 太宰は、『もの思う葦』「はしがき」「この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇も発表している。ただとは、無銭の謂いである」と書いています。「ただの小説」とは、同人誌に発表し、原稿料の無い小説のことです。"七篇"とは、魚服記(「海豹」)、思い出(「海豹」)、(「鷭」)、猿面冠者(「鷭」)、彼は昔の彼ならず(「世紀」)、ロマネスク(「青い花」)、道化の華(「日本浪漫派」)のことと推定されます(発表順)。
 太宰は、先の文章に続けて「私の小説に買い手がついた。売った。売ってから考えたのである。もう、そろそろ、ただの小説を書くことはやめよう。欲がついた。」と書いていますが、太宰が最初に同人誌以外に"太宰治"の名で小説を発表したのは、1935年(昭和10年)2月1日付発行の「文藝」二月号に発表した『逆光』蝶蝶」「決闘」「くろんぼの3篇。

 太宰が"太宰治"の筆名で小説を発表し、はじめて原稿料を受け取ったのは、ペンネーム決定から2年後のことでした。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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