今週のエッセイ
◆『もの思う葦(その一)』④
-当りまえのことを当りまえに語る。
1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
1935年(昭和10年)11月上旬前半頃に脱稿。
『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「
なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、「週刊 太宰治のエッセイ」でもこれを踏襲した。
掲載の4回目である1935年(昭和10年)12月1日発行の「
「「衰運」におくる言葉」
ひややかにみずをたたえて
かくあればひとはしらじな
ひをふきしやまのあととも
右は、生田長江のうたである。「衰運」読者諸兄へのよき暗示ともなれば幸甚である。
君、あとひとつき寝れば、二十五歳。深く自愛し、そろそろ路なき路にすすむがよい。そうして、不抜の高き塔を打ちたて、その塔をして旅人にむかい百年のまちで。「ここに男ありて、――」と必ず必ず物語らせるがよい。私の今宵のこの言葉を、君、このまま素直に受けたまえ。「ダス・ゲマイネに就いて」
いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の「シルレル論」を読み、否、読まされ、シルレルはその作品に於いて、人の性よりしてダス・ゲマイネ(卑俗)を駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた。そこにこそ、まことの自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。ケエベル先生は、かの、きよらなる顔をして、「私たち、なかなかにこのダス・ゲマイネという泥地から足を抜けないもので、――」と嘆じていた。私もまた、かるい溜息をもらした。「ダス・ゲマイネ」「ダス・ゲマイネ」この想念のかなしさが、私の頭の一隅にこびりついてはなれなかった。
いま日本に於いて、多少ともウール・シュタンドに近き文士は、白樺派の公達 、葛西善蔵、佐藤春夫。佐藤、葛西、両氏に於いては、自由などというよりは、稀代のすねものとでも言ったほうが、よりよく自由という意味を言い得て妙なふうである。ダス・ゲマイネは、菊池寛である。しかも、ウール・シュタンドにせよ、ダス・ゲマイネにせよ、その優劣をいますぐここで審判するなど、もってのほかというべきであろう。人ありて、菊池寛氏のダス・ゲマイネのかなしさを真正面から見つめ、論ずる者なきを私はかなしく思っている。さもあればあれ、私の小説「ダス・ゲマイネ」発表数日後、つぎの如き全く差出人不明のはがきが一枚まい込んで来たのである。
うつしみに
きみのゑがきし
をとめのゑ
うらふりしけふ
こころわびしき
右、春の花と秋の紅葉といずれ美しきという題にて。
よみ人しらず。
名を名乗れ! 私はこの一首のうたのために、確実に、七八日、ただ、胸を焦がさんほどにわくわくして歩きまわっていた。ウール・シュタンドも、ケエベル先生もあったものでなし。所詮、私は、一箇の感傷家にすぎないのではないか。
「金銭について」
ついに金銭は最上のものでなかった。いま私、もし千円もらっても、君がほしければ、君に、あげる。のこっているものは、蒼空の如き太古のすがたとどめたる汚れなき愛情と、――それから、もっとも酷薄にして、もっとも気永なる復讐心。「放心について」
森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめきつつも、或る夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた! と思い込んで、はね起きる。走る。ひた走りに走る。一瞬間のできごとである。私はこの瞬間を、放心の美と呼称しよう。断じて、ダス・デモニッシュのせいではない。人のちからの極致である。私は神も鬼も信じていない。人間だけを信じている。華厳の滝が涸れたところで、私は格別、痛嘆しない。けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。
附言する。かかる全き放心の後に来る、もの凄じきアンニュイを君知るや否や。
「世渡りの秘訣」
節度を保つこと。節度を保つこと。
「緑雨」
保田君曰く、「このごろ緑雨を読んでいます。」緑雨かつて自らを正直正太夫と称せしことあり。保田君。この果敢なる勇気にひかれたるか。
「ふたたび書簡のこと」
友人にも逢わず、こうして田舎に居れば、恥多い手紙を書く度数もいよいよしげくなるわけだ。けれども、先日、私は、作家の書簡集、日記、断片をすべてくだらないと言ってしまった。いまでも、そう思っている。よし、とゆるした私の書簡は私の手で発表する。以下、二通。(文章のてにをはの記憶ちがいは許せ。)
保田君。
ぼくもまた、二十代なのだ。舌焼け、胸焦げ、空高き雁 の声を聞いている。今宵、風寒く、身の置きどころなし。不一。
さらに一通は、
(眠られぬままに、ある夜、年長の知人へ書きやる。)
かなしいことには、あれでさえ、なおかつ、狂言にすぎなかった。われとわが額を壁に打ちつけ、この生命 絶たんとはかった。あわれ、これもまた、「文章」にすぎない。君、僕は覚悟している。僕の芸術は、おもちゃの持つ美しさと寸分異るところがないということを。あの、でんでん太鼓の美しさと。(一行あけて)ほととぎす、いまわのきわの一声は、「死ぬるときも、巧言令色であれ!」
このほか三通、気にかかっている書簡があるのだけれど、それらに就いては後日、また機会もあろう。(ないかも知れぬ。)
追記。文芸冊子「非望」第六号所載、出方名英光 の「空吹く風」は、見どころある作品なり。その文章駆使に当って、いま一そう、ひそかに厳酷なるところあったなら、さらに申し分なかったろうものを。
太宰の弟子・田中英光
今回紹介した最後のエッセイ「ふたたび書簡のこと」に名前が登場する
田中は、東京都生まれの小説家で、早稲田大学第二高等学院を経て、早稲田大学政経学部を卒業しました。1932年(昭和7年)、ロサンゼルス・オリンピックのボート競技エイト種目に、早稲田大学クルーの一員として出場もしています。「出方名」というペンネームは、田中がボート部時代に「田中」姓が2人いて、体の小さい方が「コタナカ」、大きい方が「デカタナ」と呼ばれていたことに由来しています。
1935年(昭和10年)2月、同人雑誌「非望」に『急行列車』を発表し、北川冬彦に認められました。大学卒業後は、横浜ゴム製造株式会社に入社、朝鮮京城の同社出張所への配属となりました。同年8月、「非望」に『空吹く風』を発表。太宰はこの短篇を「見どころある作品なり。その文章駆使に当って、いま一そう、ひそかに厳酷なるところあったなら、さらに申し分なかったろうものを」と評しました。田中は、この頃から太宰に師事するようになります。
1938年(昭和13年)2月、田中は東京本社へ出張した際、杉並区天沼に住んでいた太宰を訪問しますが、不在のため会うことはできませんでした。
田中が実際に太宰に会うことができたのは、天沼訪問の2年後、1940年(昭和15年)3月でした。この時、田中は小説『杏の実』を持参。太宰はこれをギリシャ神話に拠って『オリンポスの果実』と改題させ、丁寧な批評をして2度にわたって書き改めさせたのち、「文学界」に斡旋しました。同年発行の「文学界」九月号に掲載された『オリンポスの果実』は、同年12月に第七回池谷信三郎賞を受賞し、田中の出世作となりました。
以後も小説を発表し続けた田中ですが、1948年(昭和23年)6月の太宰の死に強い衝撃を受け、アドルム、カルモチンなど睡眠薬の服用量が増え、薬物中毒となりました。
1949年(昭和24年)11月3日午後5時頃、田中は、師・太宰の眠る三鷹禅林寺の墓前で、睡眠薬アドルム300錠と焼酎1升を飲んだ上で、安全カミソリで左手首を切って自殺を図ります。知らせを受けて駆け付けた新潮社の編集者・野平健一により、三鷹市上連雀の病院に運ばれ、処置を受けましたが、同日午後9時40分に息を引き取りました。享年36歳。
■太宰と田中英光
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【太宰治39年の生涯を辿る。
"太宰治の日めくり年譜"はこちら!】
【太宰治の小説、全155作品はこちら!】