記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月29日

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9月29日の太宰治

  1935年(昭和10年)9月29日。
 太宰治 26歳。

 これまで毎号寄贈されていた同人雑誌「非望」(昭和十年三月一日付創刊、昭和十年九月第六号で廃刊)の同人の訪問を受けた。

荒れた竹藪の中の、かぐや姫

 1935年(昭和10年)9月、太宰は、同年3月から毎号寄贈されていた同人雑誌「非望」の同人たちの訪問を受けます。
 「非望」創刊号の同人名簿によると、創刊時の同人は、伊牟田恭輔岡田幸男楫西定雄神戸哲六鳴海軍出方名(でかたな)英光山口寅雄山村良太佐藤(たすく)森健夫の10名(皆、ペンネーム)でした。

 この時、太宰を訪問したのは、佐藤弘(筆名・佐藤佐)、鳴海和夫(筆名・鳴海軍)、神戸政年(筆名・神戸哲六)、神崎健夫(筆名・森健夫)の4人。「非望」副編集人の鳴海は、金木町大字金木字朝日山195番地の出身、太宰の2歳下で、少年時代の友人だったといいます。また、佐藤は、鳴海の従兄弟で、鳴海とともに太宰の生家・津島家を訪れたこともあり、太宰と既知の人物でした。
 4人は、太宰の妻・小山初代の手料理の寄せ鍋で酒を飲み、もてなされたといいます。

 この時、太宰に贈られた「非望」第五号(1935年(昭和10年)8月刊行)には、出方名(でかたな)英光(本名・田中英光(たなかひでみつ))の『空吹く風』が掲載されていました。このペンネームは、田中が早稲田大学のボート部時代、「田中」姓が2人いて、体の小さい方が「コタナカ」、大きい方が「デカタナ」と呼ばれていたことに由来しています。

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田中英光

 太宰は、出方名(でかたな)『空吹く風』を読み、当時、京城府南大門通り2丁目133番地古河ビルにあった横浜護謨(ゴム)製造株式会社(現在の、横浜ゴム株式会社)朝鮮出張所に赴任していた田中に宛てて、次のような文面の手紙を投函します。

君の小説を読んで、泣いた男がある。(かつ)てなきことである。君の薄暗い荒れた竹藪の中には、かぐや姫がいる。君、その無精髭を剃り給え。

 この手紙をきっかけに、田中の太宰師事がはじまります。
 太宰は、1937年(昭和12年)2月、朝鮮で結婚式を挙げた田中に色紙を送っています。1938年(昭和13年)2月、田中は、横浜護謨(ゴム)製造株式会社の東京支社へ出張した際、杉並区天沼一丁目鎌滝方の太宰を訪ねるも不在。1939年(昭和14年)2月頃、出征して中国山西省臨晋にいた田中から送られてきた『鍋鶴』を、太宰が「若草」五月号に発表したりと、2人の交流は続きますが、なかなか顔を合わせる機会には恵まれませんでした。

 田中が実際に太宰と初対面の機会を得ることができたのは、この5年後。1940年(昭和15年)3月のことでした。
 太宰と田中の初対面については、3月22日の記事で紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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