記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月14日

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4月14日の太宰治

  1931年(昭和6年)4月14日。
 太宰治 21歳。

 津久井信也が弘前高等学校から東京帝国大学文学部支那哲学科に進学し、訪れるようになった。

同郷の在京学生を左翼運動に勧誘?

 津久井信也は、太宰の出身校である弘前高等学校の新聞「弘高新聞」を発刊する新聞雑誌部のメンバーで、太宰も同部の委員でした。
 「弘高新聞」は、1928年(昭和3年)6月5日に創刊。新聞雑誌部の委員長・平岡敏男は知りませんでしたが、新聞雑誌部創立時のメンバーである、広瀬秀雄と上田重彦(のちの作家・石上玄一郎(いそのかみげんいちろう))は、校内左翼細胞の幹部でした。
 一方、太宰は、この「弘高新聞」を利用して、創作活動をはじめます。第五号に小菅銀吉の筆名で鈴打(りんうち)、第六号に同じ筆名で掌編哀蚊(あわれが)、第八号に同じ筆名で掌編『花火』、第九号に大熊熊太の筆名で文芸時評『十月の創作』を発表しました。

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■『哀蚊 のちに改変され、『地主一大』『』に挿入されました。上田は尖鋭なマルキストでしたが、その創作は太宰に大きな刺激を与えました。

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弘前高等学校時代の太宰 「いい男だろ 小菅銀吉」と書かれている。

 1931年(昭和6年)4月、津久井弘前高等学校から東京帝国大学文学部支那哲学科に進学。太宰のもとを訪れるようになります。
 津久井によると、津島修治(太宰の本名)の依頼で、本郷区台町厚生館の津久井の下宿を、非合法な会合場所にしばしば提供し、人を(かくま)い、やがて津久井も勧誘されて、学生全協支持団に加入して活動するようになったといいます。
 津久井は、修治から、謄写版刷りの「赤旗」(しんぶん赤旗日本共産党中央委員会の発行する日本語の日刊機関紙)を貰って帰ったりもしました。津久井は、「それを角帽の中に入れて被って交番の前をびくびくしながら帰ったことを記憶している」と、当時を振り返っています。
 飛島定城(とびしまていじょう)は、修治が「郷里青森県出身の在京学生を左翼化する仕事をやっていたらしい」と、当時の太宰を回想しています。

 太宰は、どこまで本気で活動していたのでしょうか。

●太宰と左翼運動については、過去の記事でも紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『太宰治生誕110年記念展 ―太宰治弘前―』(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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