記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月27日

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10月27日の太宰治

 1938年(昭和13年)10月27日。
 太宰治 29歳。

 十月三十一日付発行の「帝国大学新聞」に「校長三代/弘前=校長検事局へ行く」(のち「校長三代」のみの標題とする)を発表。

『校長三代』

 今日は、太宰のエッセイ『校長三代』を紹介します。
 『校長三代』は、1938年(昭和13年)10月31日発行の「帝国大学新聞」第七百三十八号の第八面に「高校今昔の横顔(16)」の総題の下に「弘前=校長検事局へ行く」のサブタイトルを付して発表されました。

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弘前高等学校時代の太宰

『校長三代』

 私が弘前の高等学校にはいってその入学式のとき、訓辞した校長は、たしか黒金という名前であったと記憶している。金縁の眼鏡を掛け、痩身で、ちょっと気取った人であった。高田早苗に似ていた。植木が好きで、学校のぐるりに様々の植木を、優雅に配置し、ときどき、ひとり、両手をうしろに組んで、その植木の間を、ゆっくり縫って歩いていた。
 間もなくいなくなって、そのかわりに来たのは、鈴木信太朗氏である。このひとの姓名は、はっきり覚えている。このひとはちょっと失敗した。いまは、どうして居られるか。政治家肌のひとで、多少、政党にも関係があったようである。就任早々、一週を五日として、六日目毎に休日を与え、授業も毎日午前中だけにしたい、それゆえに生徒が怠けるとは思われない。自分は生徒を信じている、というような感想を述べ、大いに生徒たちを狂喜させたが、これは、実現されなかった。結局、感想にすぎなかた。けれども他のことを実行した。
 一校を一国家と看做(みな)し、各クラスより二名ずつの代議士を選挙し、学校職員ならびに校友会委員は、政府委員となり、ときどき議会をひらいて、校政を審議するというような謂わば維新を断行した。
 校長自身は、さしずめ一国の宰相とでもいうようなところであった。代議士選挙は、さかんであった。学校の廊下には、べたべた推薦のビラが張られて、選挙事務所などよりも、ものものしく、或るものは校門の下に立って、登校の生徒ひとりひとりに名刺を手交し、よろしくたのみます、といって低くお辞儀をして、或るものは、中学校の先輩という義理のしがらみに依って、後輩を威嚇し、饗応、金銭、などというばかな噂さえ立った。
 この議会制度は、のちに宰相を追放した。あのときは、たいへんな騒ぎであった。校長が、生徒たちの醵金(きょきん)してためて置いた校友会費、何万円かを、ひそかに消費してしまっていたのである。何に使ったかは、軽々に、私たち、今は言えない。校長自身が、知っている。そのころの政客のあいだでは、そんなこと平気なんだろうが、「教育界でそんなことをして、ばかだ。」と当時県会議員をしていた、私の兄が言っていた。はじめから普通でなかった。全然無学の人の感じであった。縫紋の、ぞろりとした和服が、よく似合って、望月圭介に似ていた。それだけで、何もかも、判るだろう。洋服のときはゴルフパンツである。堂々の押し出しで、顔も美しかった。たまに、学校へ人力車に乗ってやって来て、秘書をしたがえ、行内を一巡する。和服に、絹の白手袋、銀のにぎりのステッキである。一巡して、職員たちに見送られ、人力車に乗って悠々、御帰館。立派であった。それこそ、兄貴の言葉ではないが、教育界にいてそんなことをしたからこそ、失敗なので、あれで、当時の政党にいて動いていたなら、あるいは成功したのかも知れない。不幸な人であった。
 校長には、息子があった。やはり弘前高等学校の理科に在籍していた。私は、その人とは、口をきいたこともなかったが、それでも、校長の官舎と、私の下宿とでは、つい近くだったので、登校の途中、ちらと微笑をかわすことがあって、この人は、その、校長追放の騒ぎの中で、気の毒であった。
 校長は、全校の生徒を講堂に集めて、おわびをした。このたびは、まことにすまない、ゆるしてもらいたい、と堂々の演説口調で言ったので、生徒は、みんな笑った。どろぼう! と叫んだ熱血児もあった。校長は、しばらく演壇で立往生した。私のちかくに、校長の息子がいた。うつむいて、自分の靴の先あたりを、じっと見つめていた。よく、できるひとで、クラスのトップだったらしいが、いまは、どうしているだろう。
 鈴木校長が検事局に連れて行かれて、そのつぎに来たのは、戸澤とかいうひとであった。私は、ひとの名前を忘れ易く、この校長のお名前も、はっきり憶えていない。間違っているかも知れない。菊池幽芳氏の実弟である。写真で見る、あの菊池幽芳氏と、たいへんよく似ていた。小柄で、ふとって居られた。英文学者の由であった。軍事教練の査閲のときに、校長に敬礼! という号令がかかって、私たちは捧げ(つつ)をして、みると、校長は、秋の日ざしを真正面に受けて、満面これ含羞の有様で、甚だ落ちつきがなかった。ああ、やっぱり幽芳の弟だな、とそのときなつかしく思った。この校長のときに、私たちは卒業したのである。その後のことは、さっぱり知らない。

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弘前高等学校時代の太宰

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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