記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月28日

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9月28日の太宰治

  1932年(昭和7年)9月28日。
 太宰治 23歳。

 下大崎二丁目の北芳四郎(きたよししろう)宅に帰った後、高台にあった芝区白金三光町二百七十六番地高木方の、幕末幕府の歩兵奉行で、工部大学校校長、学習院院長、清国特命全権公使などを歴任し、男爵であった、大鳥圭介の旧邸の一部を借りて住んだ。

太宰、芝区白金三光町へ引越し

 1932年(昭和7年)7月31日、太宰は、北芳四郎(きたよししろう)の紹介で、妻・小山初代と一緒に、静岡県駿東郡静浦村志下298番地の坂部啓次郎方に行き、坂部家の北隣りの静浦村志下296番地の田中房二方2階の六畳二間を間借りして、約1ヶ月滞在。中断していた創作に専念して、思い出を書きはじめました。
 北は、洋服仕立業を営む、警視庁出入りの御用商人で、東京における太宰の実生活上の世話人でした。太宰の父・津島源右衛門が、衆議院議員在任中に、早稲田大学在学中の長兄・津島文治の学生服を北に新調させたことがきっかけで、津島家との付き合いがはじまりました。
 太宰の静浦村への滞在の様子は、8月12日の記事で紹介しました。

 静浦村での約1ヶ月の滞在から戻った太宰は、北の自宅に一度身を寄せたあと、高台にあった芝区白金三光町276番地高木方に引っ越しました。目黒の海軍大学を上って右に曲がったところにあり、赤錆びた門の鉄飾り越しに、庭の植え込みと、斜め奥に古風な白い洋館が見えたそうです。丈の高い両開きの扉がついた玄関の広間と2つの広い応接間のほか、八畳、十畳の和室が5、6部屋あり、広い庭には大きな池があって、鯉が泳いでいる、立派な邸宅でした。
 この建物は当時、ある銀行の担保になっており、留守管理人が、小遣い稼ぎのため、銀行に内緒で貸したものだったといいます。

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■芝区白金三光町の邸宅

 この邸宅は、赤穂郡畑念村小字石戸(現在の、兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙字石戸)出身、江戸時代後期の幕臣大鳥圭介(1833~1911)の旧邸でした。
 大鳥は、江戸幕府で歩兵奉行、幕府伝習隊長などを歴任。医師、蘭学者軍事学者、工学者、思想家、発明家。戊辰戦争では、箱館五稜郭を占拠し、陸軍奉行として戦いました。
 戊辰戦争後に入牢しますが、赦免され、明治政府入りし、政治家、外交官、官吏として活躍。工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長も務めます。位階勲等は、正二位勲一等男爵でした。

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大鳥圭介

 芝区白金三光町の住居には、太宰の義弟・小舘善四郎や、善四郎の青森中学校時代の同期で、成城学園に通学していた高谷達海も引越して寄宿することが、ほぼ決まっていました。善四郎は、太宰に、「芝に広い家が見つかって、アトリエに恰好の部屋もあるらしいし、君も引越して来ないか」と誘われたそうです。
 しかし、実弟・太宰のことを心配する四姉・きやう(善四郎の長兄・小舘貞一に嫁いでいた)が、「弟の太宰に郷里の人たちを動転させるようなことばかり続くので、実家との間の立場で、いつも心を痛めており」、ひどく気を揉んでいたため、(あによめ)の気持ちを汲んで、善四郎たちの同居は、取り止めることにしたそうです。

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■小舘善四郎

 やがて、太宰は、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)の社会部記者をしていた飛島定城(とびしまていじょう)に、「飛さん、私の所にいらっしゃい。部屋はいくらでも空いている。」と同居を勧め、飛島は、前年に結婚した妻・多摩とともに、東中野川添町の二軒長屋から引越して来て、同居しました。
 飛島は、太宰が慕っていた三兄・津島圭治弘前高等学校時代の同級生。1926年(大正15年)、太宰が青森県立中学校4年生の夏休みに初めて出会い、圭治が早世してしまった後、太宰は何かにつけて、飛島を頼りにしていました。

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■飛島定城と妻・多摩 新婚の頃。飛島は東京帝国大学を卒業した後、東京日日新聞へ入社して、社会部の記者に。同じ五所川原出身の佐々木多摩と結婚した。1931年(昭和6年)撮影。

 飛島家は、母屋の広間と洋間とを、太宰と初代は、離れの八畳間と次の間の四畳半とを使用しました。太宰は、八畳間を書斎に、四畳半を初代の居間にしていましたが、その四畳半の床の間には、「病む妻やとゞこほる雲鬼すゝき」という自筆の短冊を掛けていたそうです。
 離れの濡れ縁の前には小さな池があり、池は大小の庭石や植込みに囲まれ、木や草が茂り放題でした。太宰は、この離れの一室で、蓬々(ぼうぼう)の広い廃園を眺めながら、思い出を書き続けました。

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■太宰と初代

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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