記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月27日

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9月27日の太宰治

  1935年(昭和10年)9月27日。
 太宰治 26歳。

 翠明館(すいめいかん)に宿泊した翌日も朝から酒を飲み続け、九月二十八日に帰宅した。

はじめての原稿料で湯河原旅行②

 1935年(昭和10年)9月26日、「三馬鹿」と呼ばれていた太宰山岸外史檀一雄に、太宰の義理の弟・小舘善四郎を加えた4人は、太宰がはじめて商業誌「文藝春秋」ダス・ゲマイネを発表して得た原稿料を持って、湯河原へ旅行に行きました。

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■「三馬鹿」 左から太宰、山岸外史、檀一雄

 今回は、9月26日の記事に引き続き、このときのエピソードを、山岸の人間太宰治からの引用で紹介します。

  たしか、その夜のことだったと思う。四人のものが枕をならべて寝床にはいっていると、こんどは小舘君が妙な興奮をはじめたのである。ことによると水明館には二泊したような気もするが、記憶がハッキリしない、事の起りは、その旅館のすぐまえに、青ペンと白ペンという灯の家のあったことに原因があった。一日滞在したその翌日の散歩のときにでもそれを知ったのか、初めの夜に自動車の窓のなかからその灯火と女影とを認めたのでもあったか橋を渡って自動車がこの旅館前の庭に曲りこんでくるその左側に灯の家のあることを、一同すでに認識していたのである。大きなガラス戸のあかるい店で、たしかに、灯の下で七八人の着飾った女たちが談笑しているのがみえた。青ペンというのは青くペンキを塗った店で、白ペンというのは白いペンキを塗った店であった。その青ペン、白ペンという固有名詞をいつ知ったのかも忘れているが、とにかく、小舘君が、どうしてもその店にいってみようといってきかなかった。二十歳の小舘君の執拗さにはぼくも驚いたものである。寝床から起きだすと、寝巻のままぼくの枕もとに坐りこんで、「山岸さん、いってみましょう」をくりかえした。はては立ちあがって、動物園のハイエナのように、枕もとをはてしなく左右に往復しだした。ひどく興奮しているようであった。しかし、ぼくは酔っていたし眠かった。

 

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■小舘善四郎

 

「君、つまらんよ。ああいうところは。あとで後悔するくらいが落ちなんだ」
「しかし、それは、いってみなければわかりませんよ」
「わかっている。わかりすぎている。とにかく、眠ろう。ぼくは眠いのだ」
 しかし、眠れなかった。小舘君は、ぼくの枕もとを執拗に往復した。
 ぼくはまったく興味をもっていなかった。すでに太宰の寝床からは寝息が聞えていた。左側、檀君の床からは物音ひとつ聞えなかった。
「いや、タクシイの窓からあの灯をみたとき、すでに、ぼくは決意していたんです」
「みんな眠っているのだ。安眠妨害だ。やりきれん人だネ。ひとりでゆき給え」
 なんといっても効果がなかった。
「山岸さんは、案外、情のない人ですねェ。ぼくの気持がわかってもらえんのかなァ。ひとりでゆく勇気がないのだ」
 ぼくは呆れはてた。
「男ってものは、ほんとにそれに興味のない夜があるものですか。山岸さん。そんなこともあるものかなァ」
 ぼくは、完全に興味のない夜はあるものだと小舘君に説明した。
「山岸さんは、みかけによらず、老衰しているのじゃないですか」
 小舘君は、侮辱的なことまでいった。
「考えられないことだ。山岸さんは、ときおり、太宰とゆくって話ではないですか。ぼくとでは厭だというわけですか」
 厭味までいった。
「妙なことをいうものじゃない。真夜中なんだ」
「まだ起きてますよ。あそこの灯がまだついてる。ここからよくみえるのだ」
 なるほど、立って畳のうえを歩いている小舘君には、廊下のガラス戸越しにその灯がみえるのにちがいなかった。ぼくは眠った真似などできない人間である。でかける気にはなれなかったが、いつか二十歳の若者の本能に感動さえおぼえたものである。闇のなかからの声だけに、それが生々しくわかった。一時間は経ったと思うが、小舘君が絶望的な声をだし、あるいは嘆願的になった。威嚇的にさえなった。ぼくは、山中の孤独な狼の遠吠えを聞いているような気さえしたものである。
 絵描きというものは、平生、裸婦など扱っているだけに、若いのに、もう、男性の本能を熟知しているらしかった。小舘君も、正直だと思った。
「それなら畳にきちんと坐って、頭を下げてみたまえ」
 まさか、それはできまいと考えて最後にそういってみたが、(激怒するかも知れないと考えていた。)小舘君は畳にきちんと坐って、ミゴトに闇のなかで頭を下げたのである。
「仕方がない。いきましょう」
 ぼくも潔く蒲団から起きあがった。
褞袍(どてら)を着なおして、帯をしめなおしたまえ。やはり、皺苦茶でいってはいけないものなのだ。堂々と出陣しなければいけない」
 ぼくはたしかに余計なことまでいった。
「太宰さんと檀さんをおこしましょうか」
 小舘君が、帯をしめなおしながらいった。
「寝かしておきたまえ。寝ている方が幸福なんだ」
 ぼくはほんとにそう思っていた。太宰のスヤスヤという寝息が依然として聞えていた。
 二人で室を出かけようとすると、おなじ闇から檀君のハッキリとした声が聞えてきた。
「ぼくもゆきます」
 檀君は眼をさましていて、全部この問答を聞いていたのである。
「なんだ。おきていたのかい」
 小舘君まで笑った。しかし、この問答を一時間も聞いていながら、檀君もよく黙って寝た真似をしていられたものだと、これにはぼくは感心した。一言もいわないで、動静を窺っていたのである。

 

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檀一雄

 

 「よしッ」とぼくは思った。ぼくも帯を締めなおした。
「とにかく、宿の者にミットモナイから足音を忍ばせること。こういうときは、爪先で歩くものなんだ」
 二人ともそれは知っているようであった。三人は足音ひとつたてず、風のように廊下を渡って、野猿(ましら)のように階段をおりた。階下の廊下を玄関へと、音ひとつたてなかった。水の流れるように歩いた。下駄箱から宿の駒下駄をだすのにも音をたてなかった。白い木綿カーテンをあけると、螺旋錠をひねって、重い大きなガラス戸を、一寸二寸とじつに静かにあけて、わずかな隙間から風のように表に流れでた。玄関前の砂利の広場もきわめて静かに道路まででた。そこから大きな足音をわざとたてながら、すぐ前の灯のあかるい店にはいっていったのである。暇だったのか晩くまでやっていた。五六人の女たちが、わッと賑やかな声をたてた。そこには安楽椅子と大きな円卓とがあって、女たちは夜話をしていたようであった。三人とも、さっとその室をみまわして、瞬時に物色した。その狭い階段の途中で、ぼくは背後からあがってくる檀君をかえりみて、
「ここにいたっては宇治川の先陣争いとおなじことだから、後輩も先輩もないものだと考えてください」といった。ぼくは、階下ですでに心に決めた女をみていたのである。
「いいです」
 檀君もそういった。階上の室でやり手婆さんと交渉をおえると、三四人の女たちがはいってきた。
「あれがぼくの()だ」
 ぼくは、間髪をいれず、ひとさし指ですぐその娘を指摘した。
「やられた」
 檀君が叫び声をあげた。檀君はぼくに油断していたのである。
 しかし、ぼくは考えた。
 檀君の「やられた」という叫び声にはあまりにも実感があった。ぼくはなにか大人気ないような気がした。
「ゆずってもいいのですよ」
 ぼくはそういった。
「いいですよ。どうか。きまったのだから」
 檀君はそう答えた。
「後悔はありませんか」
「ほんとです」
 ぼくは、二度とは訊かなかった。それなら、それでいいのだと思った。

 

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■山岸外史

 

 それから、各自が別室にはいったが、小一時間ほどもしてぼくが以前の客室に戻ってくると、すでにそこには小舘君がつくねんとして卓のまえで待っていた。いかにも侘しそうに白い壁にむかってひとり煙草のけむりを吐いていた。虚勢を張っているようにもみえた。しかし、ぼくはなにも言わなかった。
「つまらんかったろう」とだけいった。
 しかし、檀君はなかなか戻らなかった。ぼくたちを受けもった女二人がそろってお茶などもって入ってきた。お茶が美味かった。
「それにしても檀さんはどうしたのかな。脳貧血でもおこしたんじゃないでしょうねェ」
 小舘君がいったので、女たちが下をむいてくすくす笑った。
「しかし、これだけは、ほんとに夢みたいなものですネ。不思議だとぼくは思うんだ」
 小舘君がひとりで喋った。
「フロイド学説もこんな家の二階ではじまったのかも知れない」
 ぼくがいった。
 女たちはなにもわからずきちんと坐って、下をむいていた。
 檀君はなかなか帰ってこなかった。ぼくたちは、煙草を二本も三本も吸った。そんなところへ突然、荒々しく襖をあけて檀君が戻ってきたのである。みると、額からも頬からも首まで流汗淋漓(りゅうかんりんり)である。浴衣もはだけて胸もとまでヒドイ汗を流していた。
「山岸さん。ハンカチをくれませんか」と叫ぶようにいった。
 一見して、奮戦したことがわかった。室にはいってくると、もろ肌ぬぎになって水泳で鍛えた筋肉を示し、「やあ、背なかまでは手がまわらない」などといって、(しゃが)むとそこにいた女に背なかを拭いてもらったりした。
「伏勢に遭遇したのかネ」とぼくがいうと、
「いや、いや、なんでもない。なんでもない」
 と手を振っていたが、やがて、「ちょっと待ってて」といって再び襖から消え去った。一同大笑いになったものである。檀君はそれから五分間ほども帰ってこなかった。ぼくは檀君が例のヒューマニズムの精神で、女性を大切にしたのだと思ったが、なにもいわなかった。
「しかし、檀さんもミゴトなものですねェ。あの汗」
 小舘君が嘆息したので、みなの者がまた笑った。なごやかな時間だった。檀君の室まで一座のその哄笑は届いたのにちがいなかったが、檀君もやがて、こんどはきちんと衣紋をなおして襖から入ってくると、襖のかげにいる女に、「なにも恥かしいことないじゃないか。はいりなさいよ」それから「うん? うん?」となかば閉っている襖のむこうに耳をよせて女の囁く小声など聞いていた。「それじゃあ、いいよ。いいですとも」といってから室にはいってきて、
「お待たせしました」
 とひどく几帳面に挨拶した。それから手をのばしてがぶがぶとお茶を飲み、水を所望し、やがて持ってこられたそのコップの水を一気に飲み乾しながら、
「ウマイ! これだッ!」
 と叫び、嬉しそうな顔をした。こうして、ぼくたちは、青ペンの客室を去ったのである。
 宿に戻ってくると、どういうわけか玄関のガラス戸の螺旋鍵のかけられていることがわかった。心配した小舘君を制して遠く湯殿の方までまわって妙な潜り戸からこっそり忍びこんだ。月の好い晩だった。影が地面のうえでもつれていた。
 翌朝、太宰が、それを知って、「ヒドイ奴らだネ。友情のない人たちだネェ。おこしてくれたっていいじゃないか」といって、これはほんとに残念そうだったが、
「檀さんの美技以外は平凡なものでしたヨ」
 と小舘君がいい、「なんだ。なんだ。美技とは」と太宰が訊ね、檀君がアハハと笑った。
 この二ヵ月ほどあとの十二月に、太宰はいわゆる「碧眼托鉢(へきがんたくはつ)」の旅にでて、おなじこの水明館に泊ったようである。太宰もこの宿がなつかしかったのではないかと思う。そこからぼくに宛てて絵はがきをよこしているが、その文面によると、この夜、宿でひとりで寝ていたのは太宰ではなく、ぼくの方になっていたそうである。かえって、太宰君と檀君と小舘君の三人で、夜中、青ペンにでかけたものと宿の者たちはみなそう考えていたという。
「君は、なかなかの達人ですよ」とあとになって太宰がいった。
  (中略)

 

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太宰治

 

 ここで、いろいろと考えてみると二晩泊ったような材料もでてくるのだが、とにかく、その翌日か翌々日の午後の汽車でぼくたちは湯河原を発った。三時くらいの汽車だったと思う。途中、横浜で下車して伊勢佐木町のいい店で中華料理を食べようということになった。案外、予算が沢山のこっていて、まだまだ贅沢ができたのである。横浜駅で下車するとすぐタクシイに乗って、山下公園にむかった。誰いうとなく、ひさしぶりで、夕方の横浜の海をみようということになった。その山下公園のベンチに四人が並んで腰をおろして、暫く夕刻の灰色の海をみていたことを鮮明に思いだす。すこし肌寒い夕暮れだった。煙草の火が赤くみえていた。どういうわけか、四人とも多少感傷的だったようにおぼえている。遊びに疲れていたのだと思うが、ほとんどお喋りをしなかった。夕刻の蒼い不透明な空気がおどんでいて、その灰色のしずかな重い海のうえをすべるように豪華な純白の客船が、港外にむけてでていった。何層にもなって並んでいるハーモニカのようなすべての窓に黄オレンジ色の灯をつけて、しずかに波を蹴たてて出航してゆくのを感慨ぶかく眺めたりした。
「われわれは、日本で死ぬんだねえ」
 太宰がぽつんとそんなことをいった。
「なにか生きてることはさびしいものだねェ」
 そんな言葉がぽつんとでたが、ときおり沖に白く閃く小さな浮灯台も海鳥の声のようなサイレンも太い汽笛も、ほんとに劇的で、ぼくたちは内省的だったように思う。
「山岸君は、外国へいってみたいと思わんかネ」
 太宰がいったが、ぼくが否定的に答えると、(大学の頃ぼくは、ギリシャにいってみたいと思ったことがあるが、当時のぼくはひどく不精で、日本だけで沢山だと思っていた。どうせどこにいってもおなじことだろうというアナーキイな考え方がどこかにあって、外国行の夢などまったくなかった。むしろ、近頃の方がはるかにそんな夢がおおいようである。)
「ぼくも外国へいってみたいなんて気持は、さらさらないね。いってもつまらんような気がするんだ。負け惜しみじゃない」
 太宰はそういった。ぼくたちはそういう点で、案外不精だったのかも知れない。土地ということについて無関心だったようである。

 

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■開園当初(1930年頃)の山下公園

 

「進取の気象なんて言葉があるけど、ぼくにはさっぱり解りませんねェ。あれは明治時代の精神じゃないのかね」
 太宰は、そんなこともいった。太宰は、たしかに、進取の気象という古い言葉を使った。しかし、そういわれてみると、ぼくもなにか反対する必要もあるように感じて、坂本龍馬の望洋の話など出したことも思いだすのである。
「しかし、それは観念的な言い方だと思いますネ。行動性がないと思うのだがネ」
 太宰は、観念という言葉に特に強いアクセントをつけて、ぼくのそういう話題を否定した。太宰は、かえって、海と対しながら(つまり、横浜という大きな波止場を眼のまえにしながら、具体的に外国というものを思いうかべて、)必死になって、矮小な自我の文学的性格を彫琢しているようにもみえた。そんな気魄があることをぼくは感じた。外国そして日本。それから日本文学の運命。日本の作家たち。そんな一連のことを考えていることがわかるような気がした。太宰は、このときほんとのことがいいたかったのだし、また、ほんとのことをいっていたのだと思う。
「要するに、ぼくたちは庶民なんじゃないか。気紛れや憧憬では、外国なんてことを思いうかべても、すぐ消えちゃうんだ。あわれなもんだ。仏蘭西映画で、結構まにあうんだものネ」
 外国行の豪華船の灯など眼前にしながら、そして、それが航跡をのこして濃灰色の夕刻の沖に悠々として立ち去ってゆくのをみたりしながら、じつは、太宰もなにか身に迫って焦慮や虚無を感じているような気配もあった。
「あの船尾をみていると、置いてきぼりを食ってるような感じだネ」
 檀君も小舘君も黙っていて。太宰の言葉には気魄があったと思う。太宰はそれだけ、このとき異国(、、)に肉迫していたのだと思う。
 広重や北斎のことに話題が移った。
「要するに、ぼくたちはあの程度なんだ」
 ことによると、太宰の沖をみている眼は、眉をあげていたかも知れない。ここには、きわめて具体的な人間太宰治の日本論があったと思う。太宰は横浜港ではたしかに興奮してその片鱗をみせたと思う外国の天才たち。太宰にはそんなイメージもあったのではないかと思う。
 また、タクシイを拾ってあかるい伊勢左木町まで引きかえした。大きな中華料理店にはいった。かなり贅沢な料理をとりよせて、一同、卓を囲んで、なかなかよく飲み且つ食った。興奮のあとのせいか、太宰はかなりしたたかに飲んだような記憶がある。珍らしく赤い顔になった記憶もある。「酩酊した」店をでるとき、太宰はそういった。しかし、金はまだ使いきれていなかった。十分に余裕があると檀君がいった。みんなかなり酔っていたから、電車は面倒だということになって、ぼくたちはタクシイで東京まで帰ることにした。その町でひろったタクシイは、夜の京浜国道をかなりの速力で飛ばしはじめたが、ぼくは運転手の背後から「一台ぬけば、そのたびに十銭ずつ割増すことにしよう」といって、その運転手を激励した。たちまちスピードはあがりはじめ、フロントグラスの前方にみえるどの自動車も、次第に追いぬかれていった。ヘッドライトはむざんに道路をあかるく照らし、また、たちまち闇の彼方のはるか前方をゆく、次の自動車の後部が小さく白く光りはじめるのである。それは、快哉というよりも、むしろ暴力的なものであった。ときおり車体は大きく揺れ、蛇行するように自動車は左右にカーブした。

 

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「事故があったら、全員、死ぬというわけだ。スリルがある」
 ぼくはそういったが、太宰は必死になって、座席のまえにある摑まり綱に摑まっていた。恐怖していたのだが、太宰はそれをいわず、猫背をいっそう猫背にしてその綱に獅噛みついていた。しかし、ぼくの腹の奥の方でもたしかになんらかの意味で恐怖があった。ことに、向うからみえた目映ゆいヘッドライトがたちまち、爆発したような烈しい風音をのこして瞬時に擦れちがってゆくときには、衝突の感じがおこり、さすがに快哉以上のものがあったが、ぼくは運転手に緩走を命じなかった。ぼくのおぼえているかぎり、この夜くらい車を飛ばした夜はなかった。
 檀君が車に揺られながら歌を唱いはじめた。それは「谷間の灯」であった。(ぼくはそれをよくおぼえている。)故郷を捨てた青年が、故郷の深い谷間にある母の家の灯火(ともしび)追想しているあの歌である。それは、檀君のっ頃をそのままあらわし、放浪の若い心と懐郷の情と、母の黒い影を映している谷間の小屋の窓の灯をよく声にしていた。ぼくたちは、暴風のように疾走する車のなかで、その歌をしずかに聞いていた。それは贅沢なものだった。車はたちまちすべての町を通過した。町の灯は流れ去るように後へ後へ飛んでいった。
 品川にやってきた頃、ぼくたちは思いついたように、「隅田川を渡って、あの灯の町にゆこう」ということになって、さらにおなじ車で東京市を縦断した。誰も家にかえりたくなかったのか、すでに、車が仮りの家になっていたのか。それとも三人ともすでにみな、家を捨てていたのかも知れない。その灯の町につくまでに、タクシイはたしか二十八台、前の車をぬいていたのをおぼえている。
「わりと抜けないものだネ」
太宰が車からおりるときそういった。

 

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 今回の湯河原旅行で、太宰一行が宿泊した、翠明館(すいめいかん)。残念ながら、個人・団体ともに客数が減少してしまい、首が回らなくなってしまったことが原因で、2010年(平成22年)9月15日に閉館となってしまったそうです。翠明館は、1933年(昭和8年)の創業でした。

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■翠明館 湯河原翠明館は、万葉公園の南側に位置した静かな渓谷にあり、屋上からは、湯河原温泉を一望することができたそうです。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「東京のタクシー百年史 タクシー生誕100周年」(社団法人 東京乗用旅客自動車協会)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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