12月4日の太宰治。
1935年(昭和10年)12月4日。
太宰治 26歳。
十二月四日付で、小舘善四郎と津村信夫に手紙を送る。
小舘善四郎と津村信夫への手紙
今日は、1935年(昭和10年)12月4日付で、太宰が、小舘善四郎と津村信夫に宛てて書いた2通の手紙を紹介します。
1通目は、義弟・小舘善四郎に宛てた手紙です。善四郎の長兄・小舘貞一に、太宰の四姉・きやうが嫁いだことがきっかけで、太宰と善四郎は親交を深めました。太宰は善四郎のことを、弟のように可愛がったそうです。
千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
青森市浪打六二〇
小舘善四郎宛
謹啓
このたびのことで、男のなかでかなしみ最も深かったのは、私だ。
こう書いていても涙が出て、しょうがないのだ。
だいいちに母へちから をつけること。これは、きみの義務だ。
純粋のかなしみをかなしみたまえ。
きょう、保さんからお手紙もらったが、私には保さんが、恐しいひとになった。
こんど、わたしの「晩年」が出ることにきまった。プルウストのあの白く大きい本と同じ装丁にした。
■淀野隆三・佐藤正彰 共訳『スワン家の方』(武蔵野書院発行) 太宰の処女短篇集『晩年』は、プルーストのこの本の装丁を参考に作成された。
保さんには、「受けとりました。」とそれだけ申して呉れ。
君の友は、母上だけになったのだ。
敬具
善 四 郎 様
ぼくたちのかなしみを笑うひとは、殺す。取り乱したまま投函。
「保さん」は、善四郎の次兄・小舘保のこと。「保さんからお手紙もらったが、私には保さんが、恐しいひとになった」とありますが、保から太宰に、どのような内容の手紙が届いたのでしょう。
ちなみに、この手紙の直前である同年11月27日、保と善四郎の父である小舘保治郎が亡くなっています。「君の友は、母上だけになったのだ」とは、そのことを指しているのでしょうか。太宰は、保治郎の死の直前である同年11月23日に、保治郎も登場するエッセイ『人物に就いて』を脱稿しています。『人物に就いて』は、翌年1936年(昭和11年)1月1日付発行の「東奥日報」に発表されました。
■太宰と小舘善四郎
2通目は、太宰と同年齢、兵庫県神戸市生まれの詩人・津村信夫に宛てた手紙です。
太宰と津村が出会ったのは、1934年(昭和9年)。太宰から同人誌「青い花」に誘われ、津村は創刊号に、詩「千曲川」「往生寺」「長野」「林檎園」を発表しました。津村の「千曲川」を気に入った太宰は、この年の暮れに、山岸外史の案内で津村の家を訪れています。
千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
東京市本郷区西片町一〇
津村信夫宛
謹啓
冬には、どうも元気がでない。早く一日たてばよいと、いま それだけを念じて居る。来年になるとお互いに運がよくなるらしいから。
詩集、ありがとう。君のほうが、ぼくより一日はやく開花した。装丁もいやみじゃない。
いまから出版紀念会の話も どうか、と思うけれど、ぼく今年中なら、脚がわるくて、とても行けない。来年正月になったら、正月に会をするなら、ぼくも行く。おそらくは、もっとも、深き愛情を以て。
ぼくの短篇集、「晩年」。来年の三月中に、上野の砂子屋書房から出すつもり。もう きめてしまいました。
誰も買わなければ、ぼくひとりで買う、と砂子屋書房主人に言って置きました。
「愛する神の歌」一巻、きょうより以後、もっとも深く読み、かつ、耳をすまして聴くつもりです。
どのように離れていても、私、ジェネレエションを信じています。どこかで、恥かしいほど固い握手をして居ることを思うと、涙ぐむ。
敬具
津村信夫様
四日
「詩集、ありがとう」とは、この年の11月に出版した第一詩集『愛する神々の歌』のこと。「君のほうが、ぼくより一日はやく開花した」とありますが、同年8月、太宰は第一回芥川龍之介賞の受賞を逃していました。
津村の第一詩集を絶賛しながらも、同年齢の太宰には、”先を越されてしまった”という悔しさもあったかもしれません。
津村は、1943年(昭和18年)にアディスン氏病と診断され、翌1944年(昭和19年)6月27日に永眠。享年36歳でした。
太宰は、津村の死を悼み、追悼文『郷愁』を執筆しています。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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