記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月15日

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10月15日の太宰治

  1936年(昭和11年)10月15日。
 太宰治 27歳。

 篠原病院に入院中の小舘善四郎には、母小舘せい(勢以)が上京し付添い看護する予定であったが、都合で来られなくなり、小舘礼子に代って初代が付添い、看護をすることになった。

初代、小舘善四郎を付添い看護

 1936年(昭和11年)10月15日、太宰がパビナール中毒療養のため、東京武蔵野病院に入院してから2日後のことです。

 太宰が、東京武蔵野病院 に入院する数日前の10月10日頃、太宰の義弟・小舘善四郎は、手首の静脈を切って自殺未遂を起こし、篠原病院に入院していました。小舘の自殺未遂の詳細については、10月9日の記事で紹介しています。

 篠原病院では、小舘の妹・小舘礼子が通いで付添い看護をしていました。しかし、礼子はテーラー・システム上野陽一事務所に住み込み奉公の身だったため、青森から母・小舘せいを呼び寄せ、付添い役を代わってもらいました。

 この頃、入院中の太宰は病院側から面会謝絶を申し渡されており、太宰の妻・小山初代は太宰の入院当初、毎日のように東京武蔵野病院 へ出掛けて行っては受付で断られ、気が抜けたように(しお)れて帰っていたといいます。
 太宰が入院して間もなく、東京で太宰の面倒を見ていた北芳四郎の配慮で、船橋の太宰の自宅は引き払われ、初代は太宰の師匠・井伏鱒二宅に滞在するようになります。東京武蔵野病院 から井伏宅へ帰る途中に篠原病院があったため、初代は小舘のところに立ち寄ることもありました。
 小舘の母・せいは、以前から初代とも面識があり、上京した際、これまで何度か太宰夫妻宅を訪れたことがあったといいます。そこで、小舘の母は、たびたび病室に顔を出しては時間を潰していく初代に、通いの付添いを依頼し、当面暇な初代は、その依頼を引き受けました。

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■太宰と小舘善四郎

 初代は、井伏夫人・井伏節代に小舘の付添いのことを話し、その方が気が紛れると言い、それから毎日、篠原病院に出かけました。通いでの付添いでしたが、泊り込みで付き添ったこともあったともいわれています。
 初代の挙動に最初に不審を抱いたのは、井伏宅に同居していた井伏の義母(節代の母)でした。井伏の義母は、初代の帰宅がときどき深夜に及ぶことを懸念し、井伏夫妻に注意を促しましたが、井伏は年寄りの取り越し苦労程度に考えて、あまり気にしなかったといいます。しかし、この時点ですでに、小舘と初代の2人は過失を犯してしまっていました。

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■太宰と小山初代

 小舘は入院から2週間後に退院し、卒業作品制作のために青森に帰省しましたが、帰るに先立って、初代にこの一件を2人だけの秘密にしておくことを約束しました。
 しかし、翌1937年(昭和12年)3月初旬、太宰はこの事件の顛末を知らされることになります。2人だけの秘め事にしておくはずだった過失を、太宰の言葉を勘違いして受け取った小舘が、不用意にも単独で太宰に告白(、、)してしまったからでした。小舘が太宰に事の顛末を告白(、、)することになった経緯については、3月5日の記事で紹介しています。

 小舘のこの「告白(、、)」は、このあとに展開される「水上心中事件」による離婚劇へと繋がっていきます。

 【了】

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【参考文献】
相馬正一『評伝 太宰治 第二部』(筑摩書房、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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