記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月13日

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4月13日の太宰治

  1945年(昭和20年)4月13日。
 太宰治 35歳。

 小山清(こやまきよし)三鷹の家に帰り、以後、疎開中の留守宅を守った。

太宰、甲府疎開する

 小山清こやまきよしは太宰の弟子で、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲罹災(りさい)し、太宰を頼って三鷹に避難していました。
 東京大空襲の翌日から、小山と共に甲府疎開するまでは、4月3日の記事で紹介しましたが、今回は、甲府疎開した後の太宰の足跡を、小山の著書『二人の友』からの引用を絡めながら辿ってみます。


4月10日

 三月末に、奥さんとお子さん達は甲府の奥さんの里に疎開して、私は間借り先から太宰さんの家に移った。四月二日未明に、家の近所一帯が爆撃にあった。時限爆弾なるものをはじめて使用した空襲であった。偶々(たまたま)、その頃横浜にいた田中英光がその前の晩に来合わせて泊り込んでいて、三人は防空壕に避難したが、壕の土が崩れてきて半身埋まり、危うく命拾いをした。爆撃のため家が半壊したので、太宰さんと私は四五日、吉祥寺の亀井勝一郎氏の許に厄介になった。私は太宰さんに、三鷹の家には私が残るから、奥さんの里に行ったらどうかと提案してみた。太宰さんはほっとした面持で、「きみも時々遊びにくればいいね」と云った。太宰さんは気が弱く、自分からはそういうことを云い出せる人ではなかった。「お伽草紙」の草稿は、私が下谷から移ってきた時のままのようであった。田中英光がその書きかけを読んで、「(うま)いなあ」と感歎(かんたん)したのを私は覚えている。
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 甲府へ行く太宰さんを送ってゆき、ついでに私も一週間ばかり遊んできた。毎夜のように空襲があった東京に比べると、甲府は嘘のようにのんびりしていた。サーカスの興行があったらしく、そのポスターが町のところどころに掲げてあるのが目についた。

 4月2日は、太宰が妻・美知子を甲府へ送り届け、帰京した直後でした。太宰と小山、田中の3人は防空壕に胸まで埋まってしまいます。美知子は、この時の太宰を、

高射砲の音にさえ(おのの)いていた太宰にとって、これほど恐しい体験は(かつ)て無かったでしょう。(ほと)んど失神状態になったのでは無いかと思います。

と想像しています。

 小山の説得もあり、甲府への疎開を決めた太宰。「きみも時々遊びにくればいいね」なんて言ったそうですが、甲府行きを悩んでいたところを弟子に背中を押してもらい、ちょっと心に余裕ができたのでしょうか。

 甲府に到着した2人ですが、4月10日は、山梨県南巨摩郡増穂村(みなみこまぐんますほむら)に作家(農民文学者)・歌人熊王徳平(くまおうとくへい)(1906~1991)を訪ねます。熊王は『いろは歌留多』の作者で、稼業の理髪店を継ぎながら、作家業も行っていました。
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 3人は、青柳二丁目交差点近くの「枡屋」という料理旅館で飲み、近くの通称「ごんじやん」という銭湯に行き、その夜は、熊王宅の狭い二畳に宿泊したそうです。

4月11日
 太宰は、熊王から鶏二羽を土産に貰って、石原家に帰宅。小山と一緒に鶏の羽を(むし)っているところへ、「梅ケ枝」で太宰が甲府に来ていることを聞いた師匠・井伏鱒二が訪れました。この頃、井伏は甲府市外の甲運村に疎開していました。
 さて、鶏と太宰については、美知子の著書『回想の太宰治で、次のようなエピソードが紹介されています。

 太宰にとっては鶏肉が、肉類では一ばん馴染のものだった。戦争中、三鷹の農家で鶏一羽、売ってくれることがあって、それが最高の御馳走であったが、農家も出征兵を出していて男手不足なので、おばあさんか、お嫁さんが庭さきに放し飼いされている鶏をつかまえ、バタバタするのをおさえつけて、そのまま渡してくれることもある。木綿ふろしきでくるんで乳母車に子供や野菜と一緒に積みこんで帰ると、主人自ら手をくだすほかないので、酒の勢を借りて、あの虫も殺さぬ優しい人が、えいッとばかりひねってしまう。そのあとの始末を私がやって、流しの(まないた)の上におくとこれからが本番、じつは、太宰には鶏の解剖という隠れた趣味がある。頼んでもやりそうもない人なのに、こればかりは自分の仕事にきめている。(ただ)し、いたって大ざっぱな自己流で、肉は骨つきのままぶつ切りに、内臓は捨てるべきものを取り去るだけで、このとき必ず「『トリは食ってもドリ食うな』と言ってね」というせりふが出る(ドリというのは臓物の一部分で食べてはいけないとされていた)。私のカッポウ着を着てその仕事を楽しんでいる最中、来客があって、私に目顔、手まねで合図して居留守をつかってお帰ししたことがある。流しの前と玄関の戸口とほんの(わず)かしか離れていないので声が出せなかったのだ。

  太宰と小山に井伏を加えた3人は、「梅ケ枝」に行って酒盃を傾けます。この時、太宰は、井伏から、最初の妻・小山初代の死を告げられました。
 初代は、1944年(昭和19年)7月23日、青島(チンタオ)で亡くなりました。享年33歳でした。同年8月23日、白木の箱に納まって帰国します。現在、初代さんのお墓は、青森県弘前市・禅林街の静安寺にあります。
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■静安寺にある小山初代の墓 2019年8月、著者撮影。


4月12日
 太宰、小山、井伏の3人は、太宰の妻・美知子が作ってくれた弁当を持って、武田神社にお花見に行きました。小山によると、この日は「武田神社のお祭りの日」だったそうです。
 武田神社は、石原家の東、2丁目の道路の武田通りを北上したところにありました。

4月13日
 小山清は、三鷹の家に帰り、以後、太宰が疎開中の留守宅を守りました。

 花見に行った翌日私は三鷹へ帰ったが、四五日して、太宰さんから、そろそろ仕事をはじめているという便りがあった。

 小山が三鷹に戻ってから4、5日後に届いたという手紙は、最後に紹介する4月17日のハガキです。

  甲府市水門町二九 石原方より
  東京都下三鷹下連雀一一三 津島方 小山清

 拝啓 このたびは、いろいろとありがとう。おかげさまでした。こんどまた、田中君が切符入手したら、二人であそびに来て下さい。私は、そろそろ仕事をはじめています。仕事が一つ出来上たら上京しようと思っています。どんな事があっても、とにかく仕事をするより他は無い。留守の事は君の一存で万事適当にさばいて下さい。どうかお大事に。ではまた。    敬具。

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小山清 1962年(昭和37年)5月撮影。

 【了】

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【参考文献】
小山清『二人の友』(審美社、1965年)
・『太宰治研究 7』(審美社、1965年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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