記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】海

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『海』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)5月下旬頃に脱稿。
 『海』は、1946年(昭和21年)7月1日発行の「文學通信」第一巻第三号の「随筆」欄に発表された。

「海

 東京の三鷹の家にいた頃は、毎日のように近所に爆弾が落ちて、私は死んだってかまわないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はとうとう、海というものを一度も見ずに死んでしまうのだと思うと、つらい気がした。私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。
 子供は女の子で五歳である。やがて、三鷹の家は爆弾でこわされたが、家の者は誰も傷を負わなかった。私たちは妻の里の甲府市へ移った。しかし、まもなく甲府市も敵機に襲われ、私たちのいる家は全焼した。しかし、戦いは(なお)つづく。いよいよ、私の生れた土地へ妻子を連れて行くより他は無い。そこが最後の死場所である。私たちは甲府から、津軽の生家に向って出発した。三昼夜かかって、やっと秋田県東能代(ひがしのしろ)までたどりつき、そこから五能線に乗り換えて、少しほっとした。
「海は、海の見えるのは、どちら側です。」
 私はまず車掌に尋ねる。この線は海岸のすぐ近くを通っているのである。私たちは、海の見える側に(すわ)った。
「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」
 私ひとり、何かと騒いでいる。
「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。
「川?」私は愕然(がくぜん)とした。
「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。
「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」
 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏(たそがれ)の海を眺める。

 

深浦の「海べでのまどい」

 1945年(昭和20年)4月2日未明、太宰の住む三鷹アメリカ空軍の攻撃にさらされ、自宅周辺一帯に爆撃を受けました。太宰宅は、自宅裏と西側とに爆弾が落とされ、家の西側が破壊されたそうです。
 三鷹が狙われたのは、軍需省航空兵器局の管轄下にある中島飛行機があり、「一大軍需工業地帯」と呼ばれるような場所だったからでした。
 この夜の空爆で、三鷹下連雀二町会の住民56人が亡くなったそうです。

f:id:shige97:20200330211523j:image

 三鷹爆撃の4、5日後、太宰は先に故郷の山梨県甲府市疎開させていた妻・津島美知子を頼り、甲府へと身を寄せました。
 しかし、同年7月6日の午後11時23分、甲府に空襲警報が発令されます。アメリカ軍の爆撃機B29から、約10,400発、970トン余りの焼夷弾が市街一円に投下されました。この甲府空襲では市街地の約74%が焼き尽くされ、負傷者は1,239名、被害戸数は18,094戸、死者は1,127名にも及んだそうです。
 太宰が疎開していた美知子の実家も、この空襲で全焼しました。

f:id:shige97:20200705081123j:image

 甲府空襲後、太宰は、美知子の実家・石原家と交流があった山梨高等工業専門学校(現在の山梨大学)教授・大内勇の好意で、大内宅に身を寄せていましたが、炎熱の気候の中、肩身の狭い生活に半ば力尽きた太宰は、自身の故郷・津軽への疎開を決意しました。長らく故郷から遠ざかっていた太宰ですが、前年1944年(昭和19年)5月には、小説津軽を執筆するための取材旅行も行っており、精神的な抵抗感も少し弱くなっていたのかもしれません。
 太宰は、津軽への疎開準備を進め、同年7月28日に甲府駅を出発。上野駅から一路津軽を目指します。東北線、陸羽線、奥羽線と乗り継ぎ、二晩、駅のコンクリートの上で、リュックサックを枕に夜を過ごしました。朝に目覚めた太宰は、「乞食の境地がちょっと分かったね」と美知子に言ったそうです。

 2日後の同年7月30日、秋田県北部にある能代駅に辿り着いた太宰一行は五能線に乗り換えます。青森県深浦町で途中下車し、その日の夜は、秋田屋旅館に宿泊しました。この旅館は、太宰の次兄・津島英治の友人・島川貞一が経営しており、津軽執筆の取材旅行時にも宿泊、もてなしを受けていました。
 駅構内で過ごす夜が続いた上、甲府出発以来、飲むことができなかったアルコールに今夜は出会えるかもしれない、という期待を抱いての宿泊でした。美知子は、この時のことを「前夜もその前夜も駅の構内でごろ寝して、暑いさ中の乳幼児をかかえての旅で私は疲れきっていた。一刻も早く目的地に着きたいとも思わないが、まわり道したくなかった。」と回想しています。

f:id:shige97:20200521220419j:plain
秋田屋旅館 現在はふかうら文学館として公開。2018年、著者撮影。

 期待していたアルコールですが、旅館で出迎えてくれたのは、17、8歳の娘さん。主人は長患いの床に就いているとのことで、娘さんは自分の在籍している学校が2日前の青森市の空襲で焼失してしまい、これから一体どうなるのだろう、と興奮気味に語りました。
 夕食として出されたのは2つの膳で、そこにお酒の姿はありませんでした。美知子は「窓も電灯も遮光幕で(おお)って、手もとが(わず)かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。」と回想します。

f:id:shige97:20220220083412j:image

 翌7月31日の朝、深浦駅で列車の時刻を確認した後、太宰一行は海辺へ向かいます。この時の様子を、美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 翌日は晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。
 (中略)
 夕方までに金木へ着けばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
 朝の海は()いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。
 四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。

 今回紹介したエッセイ『海』は、この時の様子を回想したものだったのでしょうか。
 実は、美知子の回想には続きがあります。

 太宰が金木で書いた「海」というコントがある。
 海を指して教えても川と海の区別ができない子、居眠りしながら子の言葉にうなずく母――海というと私に浮かぶのは、あの深浦の朝の楽しかった家庭団欒(だんらん)(ひと)ときである。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自身ではないか。なぜ家庭団欒を書いてはいけないのか――私は「海」を読んでやり切れない気持であった。

f:id:shige97:20220220132550j:image

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治の全エッセイ、
 バックナンバーの一覧はこちら!】