記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月28日

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7月28日の太宰治

  1945年(昭和20年)7月28日。
 太宰治 36歳。

 朝、石原愛子、大内かね、和子などに甲府駅まで見送られ、焼土となった甲府をあとにし、妻子を連れて津軽へと旅立った。

太宰、甲府から津軽疎開

 1945年(昭和20年)4月から甲府疎開していた太宰は、「たなばた空襲」に見舞われ、甲府での生活に半ば力尽きた形で、自身の故郷・津軽への疎開を決意します。この直前の太宰の足跡については、7月17日の記事で紹介しました。

 津軽への疎開を決意した太宰は、一番弟子・堤重久に宛てた7月20日付のハガキで、次のように書いています。

 こちら全焼した。三鷹ではバクダン、甲府ではショウイダン、こんどは砲弾か、どうもことしは運勢よろしくない。まず着のみ着のままという状態になった。甲府にも居られず、妹とわかれて、われら妻子いよいよ津軽行きだ。もう五、六日経つと、出発の予定、前途三千里、決死行だ。金木へ行って、午前は勉強、午後は農耕という生活になるだろう。トルストイ伯爵にほめられるだろう。


 7月28日、朝。太宰の妻・津島美知子の妹・石原愛子、「たなばた空襲」後に身を寄せていた大内家の大内かね和子甲府駅まで見送られ、焼土となった甲府をあとにし、妻子を連れて津軽へと旅立ちました。この日も、信州境の南アルプスを越えて飛来してくるB29の銀翼を駅前で見たそうです。
 太宰は、カーキ色のズボンにワイシャツ姿、美知子はもんぺを穿いていました。
 大内家で作ってくれた、梅干しを入れたり味噌をつけたりして焼いたおむすびを、10個ほど竹の皮に包んだものを受け取りました。美知子は『回想の太宰治で、次のように回想しています。

甲府駅を出て、二つめか三つめの駅のあたりで太宰は早くも昼食のおむすびをとり出した。お弁当が大好きで必ず飯どきをまたずに食べ始める人であったが、このとき私は、自分の気持から推し量って、酒を(あお)る代りに、ぱくついたのではないかと見たのだが、それは大変賢明なことだった。上野駅の改札口の前の行列に加わって弁当を開いたときには、もうおむすびは()えていたから。

 ()える」とは、食べ物が腐って酸っぱくなること。それだけこの日も、暑い日だったのでしょう。

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■1946年(昭和21年)頃の甲府駅 前を走る電車は、山梨交通電車線。

 同日昼頃、上野駅に着き、改札を待つ座り込みの列に加わりました。
 日が暮れると警報が出て、駅の構内はぎっしりと人を詰め込んだまま暗くなり、不気味な気配になった途端、青森市焼夷弾攻撃を受けて炎上中だという構内アナウンスが流れたそうです。
 午後8時半から11時頃まで、120機のB29が青森市街を襲い、約2,000発、550トンの焼夷弾を投下。この空襲で、市街地の73%が焼失し、太宰の母校である県立青森中学校も、青森の地元新聞社である東奥日報社も灰燼に帰しました。

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■1933年(昭和8年)頃の上野駅構内

 青森行き急行列車の改札がはじまると、改札待ちの人々は、我先にと雪崩のようにホームへ走り出し、太宰一家はたちまち引き離され、小さい子供を抱えたまま乗り込む余地がないことを察し、仕方なく鈍行列車で、乗り継ぎしながら津軽を目指すことにしました。
 東北線、陸羽線、奥羽線と乗り継ぎ、二晩、駅のコンクリートの上で、リュックサックを枕に夜を過ごしました。目覚めた翌朝、太宰は、「乞食の境地がちょっと分かったね」と美知子に言ったそうです。

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 7月30日、秋田県北部にある能代駅で五能線に乗り換え、深浦の秋田屋旅館に宿泊します。この秋田屋旅館は、太宰の次兄・津島英治の友人・島川貞一が経営する旅館で、前年1944年(昭和19年)に、太宰が小説津軽執筆のための津軽旅行をした際にも宿泊しています。

 ここで再び、美知子の『回想の太宰治から引用してみます。

 一夜で焦土と化した甲府を出てから三日目のお昼頃、私たち一家は奥羽線の列車で秋田県日本海べりを北に向かっていた。
 新庄で乗り換えてからは敵機来襲でおびやかされることもなく、川部でもう一度乗り換えれば今日中に五所川原まで、あるいは連絡がうまくゆけば金木に着くことも出来そうだったのだが、太宰が能代五能線に乗り換えて、今夜は深浦泊りにしようと言い出した。前夜もその前夜も駅の構内でごろ寝して、暑いさ中の乳幼児をかかえての旅で私は疲れきっていた。一刻も早く目的地に着きたいとも思わないが、まわり道したくはなかった。しかし太宰の深浦泊りの目的が何にあるのかが察しがつくので仕方なく同意して能代で降りた。日暮れまでには深浦に着けると思っていた。ところが連絡がわるくて五能線の発車まで長い時間待ったため、深浦駅に降りたときには夜になっていた。灯火管制の上、月もなく、足もとも見えぬ闇夜である。旅館は駅のすぐ前にあるものと、ひとりぎめしていたところが、まだかまだかというほど遠い。家並も見えぬ暗い夜道を、太宰は、同じ列車から降りた中年の人と道連れになって、元気よく先立って歩いてゆくが、そのあとに赤ん坊を背負い、四つの子の手をひいてとぼとぼ従いながら、私は次第に恨みがましい気持になってきた。
 やっと左側のめざす旅館に着いたが、出入り口は固く閉ざされていて、太宰は懸命にその戸をたたき郷里の言葉で金木の生家の屋号と、昨年の五月泊めてもらったことを告げて、やっと二階の一間に通してもらうことができた。大分経ってから夕食の膳を二つ出してくれたが、この家のあるじらしい人は姿を見せず、十七、八歳の娘さんが給仕してくれた。前年の「津軽」の旅のとき、主人から特別のもてなしを受け、やまげん(”へ”の下に”源”)の勢力がここまで及んでいることを感じたことを太宰は記しているが、その主人は現われない筈、長患いの床に就いているとのことであった。娘さんはまた自分の在籍している学校(青森師範といったと思う)が、七月二十八日夜、青森市の空襲で焼失したこと、これから一体どうなるのだろうと、興奮気味に語り、窓も電灯も遮光幕で蔽って、手もとが僅かに見えるほどの暗い部屋で、とうてい、お銚子をと言い出すことが出来なくて、あてにして来た太宰が気の毒であった。甲府で罹災して以後も毎晩焼跡で飲んできていたが、甲府出発以来アルコールが全く切れていた。これではなんのためにまわり道して、深浦に泊ったのかわからない。

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秋田屋旅館 現在は「ふかうら文学館」として公開。2018年、著者撮影。

  翌7月31日、深浦駅で列車の時刻を確認してから、深浦の海辺でのひとときを過ごします。美知子は、この時の様子を、次のように回想しています。

 翌日は晴天で、窓をあけてみると空地に網や漁具が干してあって、漁港に泊ったことを実感した。宿に頼んでワカメを土産用に買って駅に向かった。
  (中略)
 夕方までに金木へつけばよいので、のんびりした気持で駅で発車の時間をたしかめてから、足はしぜんに海べに向かった。
 朝の海は凪いでいて大小様々の岩が点在し、磯遊びには絶好であった。
 四つの長女はまだ海を見たことがない。一家で子供中心の行楽の旅に出たこともなかったから、私たちははしゃいで、しばらく海べでのまどいを楽しんだ。

 深浦駅から列車に乗り、一路、金木を目指します。
 金木の町が見えて、降りる仕度をはじめた時、長女・園子は、両親の足元にうずくまったまま眠り込んでいて、なかなか目を覚まさなかったそうです。
 太宰一行は、四昼夜かかって、ようやく太宰の金木の生家へたどり着きました。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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