記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月11日

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10月11日の太宰治

  1946年(昭和21年)10月11日。
 太宰治 37歳。

 太田静子に手紙を送る。

金木から「小田静夫」への手紙

 1945年(昭和20年)7月31日、太宰は三鷹、そして甲府を経て、故郷・金木へ疎開します。太宰は、翌1946年(昭和21年)11月12日まで、約1年4ヶ月半を金木で過ごしますが、筆まめな太宰は、師匠、友人、弟子たちに、金木から多くの手紙を出しています。その中には、小田静夫に宛てた手紙も含まれていました。

 少し時を遡り、1946年(昭和21年)9月頃に、金木から出された太宰の手紙を見てみます。

 御手紙を拝見しました。離れの薄暗い十畳間にひとりで座って煙草をふかし、雨の庭をぼんやり眺め、それからペンを執りました。
 雨の庭。
 あなたの御手紙も、雨の風景を眺めながらお書きになったようですが、雨の日に、一日一ぱいお話したいと思いました。
 正宗さんの事、別に何も気になりません。それよりも、これから、手紙の差出人の名をかえましょう。
 小田静夫、どうでしょうか。美少年らしい。
 私は、中村貞子になるつもり。私の中学時代の友人で、中村貞次郎というとても素直ないい性質のひとがいるので、あのひとのいい性質にあやかるつもり。
 これから、ずっとそうしましょう。こんなこと愚かしくて、いやなんだけれども、ゆだんたいてき。
 いままでとは、ちがうのだから。
 それではまた、お手紙を下さい。お大事に。

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■離れの薄暗い十畳間 太宰が金木に疎開中に住んでいた離れは、現在太宰治疎開の家〈旧津島家新座敷〉として公開されている。2018年、著者撮影。

 この手紙の宛名は、「神奈川県足柄下郡下曽我村原 大雄山荘」に住む太田静子でした。太宰と静子が初めて出逢ったのは、1941年(昭和16年)秋頃。この時の様子は、9月7日の記事で紹介しています。太宰と静子はこの後、東京駅で会ったり、太宰が近くを訪れた際に訪問したり、という関係が続きます。

 太宰は、疎開から4ヶ月が経過した1946年(昭和21年)1月11日付で、静子に次のような手紙を送っています。

  青森県金木町 津島文治方より
  足柄郡下郡下曽我村原 大雄山
   太田静子宛

 拝復 いつも思っています。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思っていました。正直に言おうと思います。
 おかあさんが無くなったそうで、お苦しい事と存じます。
 いま日本で、仕合せな人は、誰もありませんが、でも、もう少し、何かなつかしい事が無いものかしら。私は二度罹災というものを体験しました。三鷹はバクダンで、私は首までうまりました。それから甲府へ行ったら、こんどは焼けました。
 青森は寒くて、それに、なんだかイヤに窮屈で、困っています。恋愛でも仕様かと思って、或る人を、ひそかに思っていたら、十日ばかり経つうちに、ちっとも恋しくなくなって困りました。
 旅行の出来ないのは、いちばん困ります。
 僕はタバコを一万円ちかく買って、一文無しになりました。一ばんおいしいタバコを十個だけ、きょう、押入れの棚にかくしました。
 一ばんいいひととして、ひっそり命がけで生きていて下さい。
          コ ヒ シ イ

 太宰が静子に「これから、手紙の差出人の名をかえましょう」と提案をしたのは、妻・津島美知子に2人の関係を悟られないためだったのでしょうか。

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■太田静子

 それでは、1946年(昭和21年)10月頃、太宰が小田静夫に宛てて書いた2通の手紙を紹介します。

  青森県金木町 津島文治方より
  足柄郡下郡下曽我村原 大雄山
   小田静夫

 拝復 静夫君も、そろそろ御くるしくなった御様子、それではなんにもならない。よしましょうか、本当に。
 かえって心の落ちつくコヒ。
 憩いの思い。
 なんにも気取らず、はにかまず、おびえない仲。
 そんなものでなくちゃ、イミナイと思う。
 こんな、イヤな、オソロシイ現実の中の、わずかな、やっと見つけた憩いの草原。
 お互いのために、そんなものが出来たらと思っているのです。
 私のほうは、たいてい大丈夫のつもりです。
 私はうちの者どもを大好きですが、でも、それはまた違うんです。
 やっぱり、これは、逢って話してみなければ、いけませんね。
 よくお考えになって下さい。
 私はあなた次第です。(赤ちゃんの事も)
 あなたの心がそのとおりに映る鏡です。
          虹あるいは霧の影法師。
  静 子 様
   (あなたの平和を祈らぬひとがあるだろうか)

 今回紹介している2通の手紙は、日付不詳のため、どのくらいの日数を空けて書かれたのかは分かりませんが、次の手紙は、そろそろ三鷹に戻ることを視野に入れて書かれています。

  青森県金木町 津島文治方より
  足柄郡下郡下曽我村原 大雄山
   小田静夫

 最も得意な筈の「文章」を書くのが、実は最もニガテという悲劇、私はそうなのです。
 私はいつのまにやら、自分の「心」を喪失しているのかも知れません。良導体(熱にすぐ感ずる)です。でも、イヤなヤツには少しも感じません。感ずるどころか、つめたくなるばかり。
 相手がさめると、すぐさめちゃうんです。
 こんどのお手紙、すこうし怒っていらっしゃいますね。ごめんなさい。御返事が書けなかったんです。あなただって、こないだの手紙、とても書きにくかったでしょう。あれと、そっくり同じ気持さ。それだから、こちらもとても書けなかったんです。
 でも、いつも思っています。
 私の仕事をたすけていただいて、(秘書かな?)そうして毎月、御礼を差し上げる事が出来ると思います。毎日あなたのところへ威張って行きます。きっと、いい仕事が出来ると思います。あなたのプライドを損ずる事が無いと思います。
 そうして、それには、附録があります。小さい頃、新年号など、雑誌よりも附録のほうが、たのしゅうございました。
 十一月中旬に東京へ移住します。移ったら知らせます。もうこちらへ(金木へ)お手紙よこさぬよう。

 同年11月12日に金木を後にし、三鷹へ戻った太宰ですが、翌1947年(昭和22年)1月6日、静子と再会を果たします。再会の日は、木枯らしが強く吹いていたそうです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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