記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月12日

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5月12日の太宰治

  1944年(昭和19年)5月12日。
 太宰治 34歳。

 ゲートルを着け、リュックサックを背に、弁当水筒持参で、三鷹の自宅を出発した。

太宰の『津軽』旅行①:三鷹蟹田

 1944年(昭和19年)5月12日。太宰は、「生れてはじめて本州北端、津軽半島(およ)そ三週間ほどかかって一周」します。この旅は、小山書店の加納正吉から、「新風土記叢書」の1冊として津軽を執筆することと、そのために津軽旅行をすることを勧められたことから決定しました。

 この「新風土記叢書」シリーズは、第一編が宇野浩二『大阪』、第二編が佐藤春夫『熊野路』、第三編が青野季吉佐渡』、第四編が田畑修一郎『出雲・石見』、第五編が中村地平『日向』、第六編が稲垣足穂『明石』、第七編が太宰治津軽、第八編が伊藤永之介『秋田』と、8冊刊行されましたが、現在、文学作品として読み継がれているのは、太宰の津軽のみです。

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太宰治津軽 1944年(昭和19年)11月15日付、小山書店から刊行された。

 太宰は、津軽』序編で、

(前略)高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それっきり十年も故郷へ帰らなかったのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとって、なかなか重大の事件であったと言わざるを得ない。
 私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知ったかぶりの意見は避けたいと思う。私がそれを言ったところで、所詮(しょせん)は、一夜勉強の恥かしい軽薄の鍍金(めっき)である。それらに就いて、くわしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでいる。人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。

と書いています。太宰は、当初の目論見通り、津軽という小説を通して、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える」という目標を達成することができたのでしょうか。

 太宰作品の中でも人気の高い、津軽執筆のための故郷・津軽旅行の様子を、何回かに分けて紹介していきます。今日は、太宰が三鷹の自宅を出発した5月12日から、5月16日までの5日間の行程を追っていきます。


5月12日

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚(たかし)三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多(かむらいそた)三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」
「そうして苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている(はず)だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ」

 太宰は、ジャンパーを着て、きちんとゲートルを巻き、リュックサックを背に、弁当水筒を持参して、三鷹の自宅を出発しました。

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■『津軽』出発時の旅装の太宰 小泊の「小説『津軽』の像記念館」にて。2010年、著者撮影。

 太宰は、17時30分上野発、常磐線回りの青森行き急行列車に乗ります。列車番号は、203。当時、上野ー青森間は最短14時間30分でした。
 この時期、東京ではセルの単衣(ひとえ)を着て歩いている人もいるほどの陽気で、太宰も、ジャンパーの下は薄いシャツ2枚、ズボンの下はパンツだけ、という軽装でした。しかし、夜が更けてくると、「冬の外套(がいとう)を着て、膝掛けなどを用意して来ている人さえ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い」と騒ぐほどの寒さ。太宰は「東北の寒さを失念していた」と後悔し、「ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい」と一心に念じながら、青森への到着を待ちます。
 

5月13日

 朝8時、青森駅に到着。「T君」こと、外崎(とのさき)勇三(東青病院の検査技師。金木町藤枝出身)が、娘・文子を連れて出迎えに来てくれます。外崎は、金木町藤枝に生まれ、川倉小学校卒業後、津島家へ奉公に入り、鶏の飼育係や草刈りを担当していました。太宰は、青森中学校から休みで帰って来ると、「オズ、オズ(弟の意味)」と呼んで、いろいろな本を読めと、いつも渡してくれたそうです。
 出迎えを受け、そのまま青森市寺町にあった外崎宅で休憩。外崎の妻・静枝は、「戦時中でもてなしたくても物がなくて。でも春でしたからカニを用意したのを覚えております。駆けずり回ってかきあつめたんですよ」と回想しています。
 太宰は、「ちょっと待って下さい」と言うと、向かいにあった、太宰の親戚で中学時代の下宿先でもある豊田呉服店で、羽織・袴の和服姿に着替えをし、再会を祝って乾杯しました。御膳とお酒が用意され、静枝夫人は、一番いい着物を着て迎えたそうです。
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■「T君」こと、外崎勇三

 午後、太宰は外崎と別れて、青森市営バス蟹田町「N君」こと、青森中学時代からの旧友・中村貞次郎宅へ向かいます。外崎は太宰に、「私はあした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢いましょう」と告げました。

(前略)私がこんど津軽を行脚するに当って、N君のところへも立寄ってごやっかいになりたく、前もってN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまい下さるな。あなたは、知らん振りをしていて下さい。お出迎えなどは、決して、しないで下さい。でもリンゴ酒と、それから(かに)だけは」というような事を書いてやった筈で、食べものには淡白なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、(えび)、しゃこ、何の養分にもならないような食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かった筈の、愛情と心理の使徒も、話ここに至って、はしたなくも生来の貪婪性(どんらんせい)の一端を暴露しちゃった。
 蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた。

 

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■トゲクリガニ 蟹田で「蟹」といったら、トゲクリガニ。4月下旬頃が最盛期で、津軽地方のお花見には欠かせません。著者撮影。

「リンゴ酒でなくちゃいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね」と、N君は、言いにくそうにして言うのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまっているのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人」の私は知っているので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒(ぶどうしゅ)のように、リンゴ酒が割合い豊富だという噂を聞いていたのだ。

 

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■リンゴ酒 青森県弘前市にあるニッカウヰスキー弘前工場で作られる、リンゴ100%のスパークリングワイン「シードル」。写真左が「Sweet」で、右が「Dry」。著者撮影。

「それあ、どちらでも」私は複雑な微笑をもらした。
 N君は、ほっとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きじゃないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂いのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、こう手紙に書いてあるのに相違ないから、リンゴ酒を出しましょうと言うのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらいになった筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしているのに違いないと言ったんだ」
「でも、奥さんの言も当っていない事はないんだ」
「何を言ってる。もう、よせ。日本酒を先にしますか? ビール?」
「ビールは、あとのほうがいい」私も少し図々しくなって来た。
「僕もそのほうがいい。おうい、酒だ。お燗がぬるくてもかまわないから、すぐ持って来てくれ」

 こうして、中村宅での宴会がはじまったのでした。
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■「N君」こと、中村貞次郎


5月14日

 外崎が、同じ東青病院に勤務する文学好きの同僚「Hさん」こと、樋口定夫と一緒に、約束通り朝一番のバスで蟹田を訪れます。
 さらにメンバーに、外崎の病院関係の知人である「Sさん」こと、下山清次と、今別の病院に勤務していた「Mさん」こと、松尾清照を加え、観瀾山(かんらんざん)へ花見に出かけました。1941年(昭和16年)4月1日、外崎と下山、松尾は、三鷹の太宰の家を訪れたことがあり、太宰ファンだったそうです。

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観瀾山(かんらんざん)にある太宰の文学碑 「かれは/人を喜ばせるのが/何よりも/好きであった/正義と微笑より/佐藤春夫」と刻まれている。この文学碑で使われている碑石は、太宰が青森中学時代に、平舘村宇部海岸にピクニックに行った際、この上で、中村たちと弁当を食べた、思い出の石だそうです。

 (前略)私たちは桜花の下の芝生にあぐらをかいて坐って、重箱をひろげた。これは、やはり、N君の奥さんの料理である。他に、蟹とシャコが、大きい竹の(かご)に一ぱい。それから、ビール。私はいやしく見られない程度に、シャコの皮をむき、蟹の脚をしゃぶり、重箱のお料理にも(はし)をつけた。重箱のお料理の中では、ヤリイカの透明な卵をぎゅうぎゅうつめ込んで、そのままお醤油の附焼きにして輪切りにしてあったのが、私にはひどくおいしかった。

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蟹田港から観瀾山(かんらんざん)を望む 海沿いには海水浴場やフェリー発着所があります。

 N君の奥さんの料理を堪能しながら、太宰がたじたじになる程の文学談義を展開したあと、「蟹田で一ばん大きいEという旅館」蝦田(えびた)旅館(現在は、えびた食堂)へ席を移しました。事前に「皆の昼飯の支度」をお願いしていました。下山がとって置いた「配給の上等酒」付きでした。旅館の昼ご飯にも、蟹がついてたそうです。

 T君はお酒を飲めないので、ひとり、さきにごはんを食べたが、他の人たちは、皆、Sさんの上等酒を飲み、ごはんを後廻しにした。酔うに従ってSさんは、上機嫌になって来た。
「私はね、誰の小説でも、みな一様に好きなんです。読んでみると、みんな面白い。なかなか、どうして、上手なものです。だから私は、小説家ってやつを好きで仕様が無いんです。どんな小説家でも、好きで好きでたまらないんです。私は、子供を、男の子で三つになりましたがね、こいつを小説家にしようと思っているんです。名前も文男と附けました。文の男と書きます。頭の恰好(かっこう)が、どうも、あなたに似ているようです。失礼ながら、そんな工合に、はちが開いているような形なのです」

 「はちが開いているような形」とは、逆三角形の形をした頭のこと。「はち頭には頭が良い人が少ない」という俗信もあり、太宰もいい気分はしなかったかもしれません。

(前略)Sさんは、いよいよ上機嫌で、
「どうです。お酒もそろそろ無くなったようですし、これから私の家でみんなでいらっしゃいませんか。ね、ちょっとでいいんです。うちの女房にも、文男にも、逢ってやって下さい。たのみます。リンゴ酒なら、蟹田には、いくらでもありますから、家へ来て、リンゴ酒を、ね」と、しきりに私を誘惑するのである。

 「頭の鉢」の件もあり、太宰は、早く中村の家へ引き上げて、寝てしまいたい気分でしたが、外崎に「行っておやりになったら? Sさんは、きょうは珍しくひどく酔っているようですが、ずいぶん前から、あなたのおいでになるのを楽しみに待っていたのです」と背中を押され、頭の鉢にこだわることをやめ、下山の家へ行く決心をしました。

 Sさんのお家へ行って、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさえ少しめんくらった。Sさんは、お家へはいるなり、たてつづけに奥さんに用事を言いつけるのである。
「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来たぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。挨拶をせんかい。早く出て来て拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いのか。少い! もう二升買って来い。待て。その縁側にかけてある干鱈(ひだら)をむしって、待て、それは金槌でたたいてやわらかくしてから、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃいけない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな工合いに、こんな工合いに、あ、痛え、まあ、こんな工合いだ。おい、醤油を持って来い。干鱈には醤油をつけなくっちゃ駄目だ。

 

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干鱈(ひだら) 干した鱈。鱈が豊富に獲れていたため、保存食としても重宝され、煮付けに入れたり、そのまま醤油につけて肴にしたり、溶き卵につけておかずにしたりして食べられていた。ちなみに筆者は、マヨネーズをつけて食べるのが好み。著者撮影。

コップが一つ、いや二つ足りない。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾盃、乾盃。おうい、もう二升買って来い、待て、坊やを連れて来い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらうんだ。どうです、この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいているというんでしょう。あなたの頭の形に似ていると思うんですがね。しめたものです。おい、坊やをあっちへ連れて行け。うるさくてかなわない。お客さんの前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬じゃないか。成金趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまうじゃないか。待て、お前はここにいてサアヴィスをしろ。さあ、みんなにお酌。リンゴ酒は隣のおばさんに頼んで買って来てもらえ。おばさんは、砂糖をほしがっていたから少しわけてやれ。待て、おばさんにやっちゃいかん。東京のお客さんに、うちの砂糖全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちゃいけないよ。全部、差し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで紐でゆわえて差し上げろ。子供を泣かせちゃ、いかん。失敬じゃないか。成金趣味だぞ。貴族ってのはそんなものじゃないんだ。待て。レコードをはじめろ。シューベルトショパン、バッハ、なんでもいい。音楽を始めろ。待て。なんだ、それは、バッハか。やめろ。うるさくてかなわん。話も何も出来やしない。もっと静かなレコードを掛けろ、待て、食うものが無くなった。アンコーのフライを作れ。ソースがわが家の自慢と来ている。果してお客さんのお気に召すかどうか、待て、アンコーのフライとそれから、卵味噌のカヤキを差し上げろ。これは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ。卵味噌だ。卵味噌に限る。卵味噌だ。卵味噌だ」

 

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■卵味噌のカヤキ 大きめの帆立貝の殻を鍋代わりに火にかけ、煮干の出し汁に味噌と卵を入れて焼いたもの。三つ葉やねぎ、貝柱を入れることも。「カヤキ」とは、「貝焼き」が訛ったもの。

 私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒濤(しっぷうどとう)の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。

  下山は、それから1週間、卵味噌のことを思い出すと恥ずかしく、酒を飲まずにはいられなかったそうです。

(前略)生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情に依って、どっと(せき)を破って奔騰(ほんとう)する時、どうしたらいいかわからなくなって、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう」といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙(ひんしゅく)せられるくやしい結果になるのである。

 

5月15日、16日

 前日、下山の家から中村の自宅へ引き上げたあと、太宰と中村は、さらにまたビールを飲み、外崎も2人に引き留められ、中村宅に宿泊しました。
 3人一緒に奥の部屋に寝ましたが、外崎は15日の朝、2人がまだ眠っているうちに、バスで青森へ戻ります。東青病院での仕事が忙しいようでした。

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■中村貞次郎の自宅 「中貞商店」は、奥さんが経営していた雑貨店。

 太宰は、15日と16日の2日間、中村宅の奥の部屋を借りて、執筆を行います。
 このとき執筆したのは、「満州良男(ますらお)」八月号に掲載予定だった小説『奇縁』の20枚でした。「満州良男(ますらお)」は、関東軍報道部機関誌で、原稿は、満州にいる将校達向けに書いてもらいたい、という注文。小説のタイトルは、はじめ『結婚について』でしたが、最終的には『奇縁』に変更されました。
 完成した原稿は、蟹田郵便局から、新京特別市大同大街213番地にある、満州雑誌社の「満州良男(ますらお)」編集部に送られましたが、掲載誌は届けられなかったといいます。
 のちに、新釈諸国噺の中の一篇である遊興戒と改題して、書き直したのではないかとも言われていますが、現在『奇縁』の原稿は残っていないため、真偽のほどは不明です。

 中村は、精米工場を経営しており、太宰が『奇縁』を執筆している間、別棟の工場で働いていました。

(前略)二日目の夕刻、N君は私の仕事をしている部屋へやって来て、
「書けたかね。二、三枚でも書けたかね。僕のほうは、もう一時間経ったら、完了だ。一週間分の仕事を二日でやってしまった。あとでまた遊ぼうと思うと気持に張合いが出て、仕事の能率もぐんと上るね。もう少しだ。最後の馬力をかけよう」と言って、すぐ工場のほうへ行き、十分も経たぬうちに、また私の部屋へやって来て、
「書けたかね。僕のほうは、もう少しだ。このごろは機械の調子もいいんだ。君は、まだうちの工場を見た事が無いだろう。汚い工場だよ。見ないほうがいいかも知れない。まあ、精を出そう。僕は工場のほうにいるからね」と言って帰って行くのである。鈍感な私も、やっと、その時、気がついた。N君は私に、工場で働いている彼の甲斐甲斐しい姿を見せたいのに違いない。もうすぐ彼の仕事が終るから、終らないうちに見に来い、という謎であったのだ。私はそれに気が附いて微笑した。いそいで仕事を片附け、私は、道路を隔て別棟になっている精米工場に出かけた。N君は継ぎはぎだらけのコール天の上衣(うわぎ)を着て、目まぐるしく廻転(かいてん)する巨大な精米機の傍に、両腕をうしろにまわし、仔細(しさい)らしい顔をして立っていた。
「さかんだね」と私は大声で言った。
 N君は振りかえり、それは嬉しそうに笑って、
「仕事は、すんだか。よかったな。僕のほうも、もうすぐなんだ。はいり給え。下駄のままでいい」と言うのだが、私は、下駄のままで精米所へのこのこはいるほど無神経な男ではない。N君だって、清潔な藁草履(わらぞうり)とはきかえている。そこらを見廻しても、上草履のようなものも無かったし、私は、工場の門口に立って、ただ、にやにや、笑っていた。裸足になってはいろうかとも思ったが、それはN君をただ恐縮させるばかりの大袈裟な偽善的な仕草に似ているようにも思われて、裸足にもなれなかった。私には、常識的な善事を行うに当って、(はなは)だてれる悪癖がある。
「ずいぶん大がかりな機械じゃないか。よく君はひとりで操縦が出来るね」お世辞では無かった。N君も、私と同様、科学的知識に於いては、あまり達人ではなかったのである。
「いや、簡単なものなんだ。このスイッチをこうすると」などと言いながら、あちこちのスイッチをひねって、モーターをぱたりと止めて見せたり、また籾殻(もみがら)の吹雪を現出させて見せたり、出来上がりの米を瀑布(ばくふ)のようにざっと落下させて見せたり自由自在にその巨大な機械をあやつって見せるのである。
 ふと私は、工場のまん中の柱に張りつけられてある小さいポスターに目をとめた。お銚子の形の顔をした男が、あぐらをかき腕まくりして大盃を傾け、その大盃には家や土蔵がちょこんと載っていて、そうしてその妙な画には、「酒は身を飲み家を飲む」という説明の文句が印刷されてあった。私は、そのポスターを永い事、見つめていたので、N君も気がついたか、私の顔を見てにやりと笑った。私もにやりと笑った。同罪の士である。「どうもねえ」という感じなのである。私はそんなポスターを工場の柱に張って置くN君を、いじらしく思った。誰か大酒を恨まざる、である。私の場合は、あの大盃に、私の貧しい約二十種類の著書が載っているという按配(あんばい)なのである。私には、飲むべき家も蔵も無い。「酒は身を飲み著書を飲む」とでも言うべきところであろう。
  (中略)
 その夜はまた、お互い一仕事すんだのだから、などと言いわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合った。N君は青森県郷土史研究会の会員だったので、郷土史の文献をかなり持っていた。
  (中略)
 生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の地が、いまの私たちに伝わっていないわけは無い。春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)の美徳もうらやましいものには違いないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるように努力するより他には仕方がないようだ。いたずらに過去の悲惨に歎息(たんそく)せず、N君みたいにその櫛風沐雨(しっぷうもくう)の伝統を鷹揚(おうよう)に誇っているほうがいいのかも知れない。しかも津軽だって、いつまでも昔のように酸鼻の地獄絵を繰り返しているわけではない。

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■『津軽』に挿入された、太宰自筆の地図 赤線を引いたのが、今回の移動ルート。


 
太宰の『津軽』旅行② へ続く!

 【了】

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【参考文献】
・『写真集太宰治の生涯』(毎日新聞社、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム―女性篇―』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治検定実行委員会テキスト編集部会 編集『太宰治検定・公式テキスト 旅をしようよ!「津軽」』(NPO法人 おおまち第2集客施設整備推進協議会、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「青森のうまいものたち」(https://www.umai-aomori.jp/mealtour/foodarea06/shimokita-misokaiyaki.html
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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