記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月17日

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5月17日の太宰治

  1944年(昭和19年)5月17日。
 太宰治 34歳。

 中村貞次郎(なかむらさだじろう)とともに発ち、今別の松尾清照の家に立ち寄ったあと、その夜は三厩の丸山旅館(仙龍園)で一泊。

太宰の『津軽』旅行②:今別~竜飛

 今日は、5月12日に紹介した、太宰の津軽執筆のための故郷・津軽旅行の様子を紹介する、第2回目です。

 前回は、1944年(昭和19年)5月16日、小説『奇縁』を書き上げ、中村と2人でビールを飲み、「郷土の凶作の事に就いて」話し合ったところまでを紹介しました。今回はその続き、5月17日から5月20日までの4日間の行程を追っていきます。

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■青森中学時代 左から、太宰、太宰の弟・津島礼治、中村貞次郎


5月17日

 太宰と中村は、蟹田の中村宅を出発します。

(前略)N君の案内で奥州外ヶ浜を北上したのであるが、出発に先立ち、まず問題は酒であった。
「お酒は、どうします? リュックサックに、ビールの二、三本も入れて置きましょうか?」と、奥さんに言われて、私は、まったく、冷汗三斗の思いであった。なぜ、酒飲みなどという不面目な種族の男に生れて来たか、と思った。
「いや、いいです。無ければ無いで、また、それは、べつに」などと、しどろもどろの不得要領なる事を言いながらリュックサックを脊負(せお)い、逃げるが如く家を出て、後からやって来たN君に、
「いや、どうも。酒、と聞くとひやっとするよ。針の(むしろ)だ」と実感をそのまま言った。N君も同じ思いと見えて、顔を赤くし、うふふと笑い、
「僕もね、ひとりじゃ我慢も出来るんだが、君の顔を見ると、飲まずには居られないんだ。今別のMさんが配給のお酒を近所から少しずつ集めて置くって言っていたから、今別にちょっと立寄ろうじゃないか」
 私は複雑な溜息(ためいき)をついて、
「みんなに苦労をかけるわい」と言った。

 「今別のMさん」とは、前回も登場した松尾清照のことです。

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■松尾清照

 はじめは蟹田から船でまっすぐに竜飛まで行き、帰りは徒歩とバスという計画であったのだが、その日は朝から東風が強く、荒天といっていいくらいの天候で、乗って行く(はず)の定期船は欠航になってしまったので、予定をかえて、バスで出発する事にしたのである。バスは案外、空いていて、二人とも楽に腰かける事が出来た。外ヶ浜街道を一時間ほど北上したら、次第に風も弱くなり、青空も見えて来て、このぶんならば定期船も出るのではなかろうかと思われた。とにかく、今別のMさんのお家へ立寄り、船が出るようだったら、お酒をもらってすぐ今別の港から船に乗ろうという事にした。()きも帰りも同じ陸路を通るのは、気がきかなくて、つまらない事のように思われた。

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 太宰と中村は、定期船を断念し、交通機関をバスに切り替えて、今別の松尾の家を訪れました。 

(前略)さて、私たちのバスはお昼頃、Mさんのいる今別に着いた。(中略)N君に案内されて、Mさんのお家を訪れたが、奥さんが出て来られて、留守ですとおっしゃる。ちょっとお元気が無いように見受けられた。
  (中略)
「どちらへ、いらっしゃったのですか?」とN君はのんびりしている。リュックサックをおろして、「とにかく、ちょっと休ませていただきます」玄関の式台に腰をおろした。
「呼んでまいります」
「はあ、すみませんですな」美しく内気そうな奥さんは、小さな声で言って下駄をつっかけ外へ出て行った。Mさんは、今別の或る病院に勤めているのである。
 私もN君と並んで式台に腰をおろし、Mさんを待った。
「よく、打合せて置いたのかね」
「うん、まあね」N君は、落ちついて煙草をふかしている。
「あいにく昼飯時で、いけなかったね」私は何かと気をもんでいた。
「いや、僕たちもお弁当を持って来たんだから」と言って澄ましている。西郷隆盛もかくやと思われるくらいであった。
 Mさんが来た。はにかんで笑いながら、
「さ、どうぞ」と言う。
「いや、そうしても居られないんです」とN君は腰をあげて、「船が出るようだったら、すぐに船で竜飛まで行きたいと思っているのです」
「そう」Mさんは軽く首肯(うなず)き、「じゃあ、出るかどうか、ちょっと聞いて来ます」
 Mさんがわざわざ波止場まで聞きに行ってくれたのだが、船はやはり欠航という事であった。
「仕方が無い」たのもしい私の案内者は別に落胆した様子も見せず、「それじゃ、ここでちょっと休ませてもらって弁当を食べるか」
「うん、ここで腰かけたままでいい」私はいやらしく遠慮した。
「あがりませんか」Mさんは気弱そうに言う。
「あがらしてもらおうじゃないか」N君は平気でゲートルを解きはじめた。「ゆっくり、次の旅程を考えましょう」
 私たちはMさんの書斎に通された。
  (中略)
「お酒はあります」上品なMさんは、かえってご自分のほうで顔を赤くしてそう言った。「飲みましょう」
「いやいや、ここで飲んでは」と言いかけて、N君は、うふふと笑ってごまかした。
「それは大丈夫」とMさんは敏感に察して、「竜飛へお持ちになる酒は、また別に取って置いてありますから」
「ほほ」とN君は、はしゃいで、「いや、しかし、いまから飲んでは、、きょうのうちに竜飛に到着する事が出来なくなるかも」などと言っているうちに、奥さんが黙ってお銚子を持って来た。この奥さんは、もとから無口な人なのであって、別に僕たちに対して怒っているのでは無いかも知れない、と私は自分に都合のいいように考え直し、「それじゃ酔わない程度に、少し飲もうか」とN君に向って提案しました。
「飲んだら酔うよ」N君は先輩顔で言って、「今日は、これあ、三厩(みんまや)泊りかな?」「それがいいでしょう。きょうは今別でゆっくり遊んで、三厩までだったら歩いて、まあ、ぶらぶら歩いて一時間かな? どんなに酔ったって楽に行けます」とMさんもすすめる。きょうは三厩一泊ときめて、私たちは飲んだ。

  松尾の奥さん(フサ、当時22歳)は、「アブラメの刺身と山菜ボンナの料理を出したら、太宰はボンナの香りが好きだと何回もボンナの名前を聞き、おいしい、おいしいといった。またエンツコの赤ちゃんをメンコイ、メンコイと何度もゆすってあやしました。奥さん、奥さんといわれたので、テレて言葉がでませんでした」と、当時のことを回想したそうです。

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津軽』に挿入された太宰のスケッチ 松尾の1歳の長女・圭子。エンツコとは、赤ちゃんを入れる大きな籠のこと。

 三厩を目指す太宰と中村に誘われ、松尾も三厩までお供することになりました。3人は、各々の水筒にお酒を詰めてもらい、大陽気で出発します。
 中村の提案で、本覚寺へ立寄ってから三厩を目指すことになったのですが、その道中での出来事。

(前略)お寺の屋根が見えて来た頃、私たちは、魚売の小母さんに出逢った。()いているリヤカーには、さまざまのさかなが一ぱい積まれている。私は二尺くらいの鯛を見つけて、
「その鯛は、いくらです」まるっきり見当が、つかなかった。
「一円七十銭です」安いものだと思った。
 私は、つい、買ってしまった。けれども、買ってしまってから、仕末に窮した。これからお寺へ行くのである。二尺の鯛をさげてお寺へ行くのは奇怪の図である。私は途方にくれた。
「つまらんものを買ったねえ」とN君は、口をゆがめて私を軽蔑(けいべつ)した。「そんなものを買ってどうするの?」
「いや、三厩の宿へ行って、これを一枚のままで塩焼きにしてもらって、大きいお皿に載せて三人でつつこうと思ってね」
「どうも、君は、ヘンテコな事を考える。それでは、まるでお祝言か何かみたいだ」
「でも、一円七十銭で、ちょっと豪華な気分にひたる事も出来るんだから、有難いじゃないか」
「有難かないよ。一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買い物をした」
「そうかねえ」私は、しょげた。

 「一円七十銭なんて、この辺では高い。実に君は下手な買い物をした」なんて言うのなら、太宰が鯛を買ってしまう前に、声を掛けてあげればいいのに…とも思うのですが、ションボリしてしまう太宰。
 ちなみに、「二尺くらい」は、約60センチ程度。なかなかの大物です。

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 太宰に鯛を売った「魚売の小母さん」は、小鹿ちゑ。2人の娘さんによると、「母は読み書きソロバンが得意で漢文もペラペラだった。性格はおとなしく読書家でもあった。父が漁師だったのでリヤカーで魚の行商をしていた。昭和19年は37歳であったと思います。魚を買ったのが有名な太宰治だということを人から教えられた」ということです。

  さて、太宰は鯛をぶら下げたまま、本覚寺で工藤尼僧の話を聞いたあと、三厩漁港近くの丸山旅館(のちに仙龍閣と改名。1998年に解体され、現在は空地)へと向かいます。

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■旧丸山旅館

 この丸山旅館で、「鯛事件」が起きるのですが、まずは津軽からの引用で、この事件を紹介します。

 三厩の宿に着いた時には、もう日が暮れかけていた。表二階の小綺麗な部屋に案内された。外ヶ浜の宿屋は、みな、町に不似合なくらい上等である。部屋から、すぐ海が見える。小雨が降りはじめて、海は白く()いでいる。
「わるくないね。鯛もあるし、海の雨を眺めながら、ゆっくり飲もう」私はリュックサックから鯛の包みを出して、女中さんに渡し、「これは鯛ですけどね、これをこのまま塩焼きにして持って来て下さい」
 この女中さんは、あまり悧巧(りこう)でないような顔をしていて、ただ、はあ、とだけ言って、ぼんやりその包を受取って部屋から出て行った。
「わかりましたか」N君も、私と同様すこし女中さんに不安を感じたのであろう。呼びとめて念を押した。「そのまま塩焼きにするんですよ。三人だからと言って、三つに切らなくてもいいのですよ。ことさらに三等分の必要はないんですよ。わかりましたか」N君の説明も、あまり上手とは言えなかった。女中さんは、やっぱり、はあ、と頼りないような返辞をしただけであった。
 やがてお膳が出た。鯛はいま塩焼にしています、お酒はきょうは無いそうです、とにこりともせずに、れいの、悧巧そうでない女中さんが言う。
「仕方が無い。持参の酒を飲もう」
「そういう事になるね」とN君は気早く、水筒を引寄せ、「すみませんがお銚子を二本と(さかずき)を三つばかり」
 ことさらに三つとは限らないか、などと冗談を言っているうちに、鯛が出た。ことさらに三つに切らなくてもいいというN君の注意が、実に馬鹿々々しい結果になっていたのである。頭も尾も骨もなく、ただ鯛の切身の塩焼きが五片ばかり、何の風情も無く白茶けて皿に載っているのである。私は決して、たべものにこだわっているのではない。食いたくて、二尺の鯛を買ったのではない。読者は、わかってくれるだろうと思う。私はそれを一尾の原形のままで焼いてもらって、そうしてそれを大皿に載せながらお酒を飲み、ゆたかな気分になりたかったのである。ことさらに三つに切らなくてもいい、というN君の言い方もへんだったが、そんなら五つに切りましょうと考えるこの宿の者の無神経が、(しゃく)にさわるやら、うらめしいやら、私は全く地団駄を踏む思いであった。

  これが津軽で描かれた「鯛事件」の全貌なのですが、実は2018年に、太宰の鯛を調理した女性が特定されています。
 その女性は、当時、旅館に住み込みで働いていた、新谷()んこさん。左んこさんは、既に亡くなっていたそうですが、三厩中浜に住む孫が、「祖母は太宰と会ったと言っていた」と証言したそうです。
 この調査を行った牧野さん(元三厩村役場職員)によると、鯛を切身にした理由は、「当時三厩の民宿や家庭では魚をいろりやまきストーブ、しちりんで焼いていたため、「60センチもあるタイならば切り分けて焼くしかない。左んこさんは聞き間違えたと思って切ったのでは」と推測」されるそうです。
 「鯛事件」は、個々の常識のすれ違いが生んだ事件だったようです。

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■「太宰憤怒の調理人特定」 2018年(平成30年)12月23日付「東奥日報


5月18日

 太宰と中村は、松尾と別れ、竜飛を目指します。

 (あく)る朝、起きたら、まだ雨が降っていた。下へ降りて、宿の者に聞いたら、きょうも船は欠航らしいという事であった。竜飛まで海岸伝いに歩いて行くより他は無い。雨のはれ次第、思い切って、すぐ出発しようという事になり、私たちは、また蒲団(ふとん)にもぐり込んで雑談しながら雨のはれるのを待った。 
  (中略)
 私たちは起きて囲炉裏をかこみ、鉄瓶にお(かん)をして、雨のはれるのを待ちながら、残りのお酒を全部、飲んでしまった。
 お昼頃、雨がはれた。私たちは、おそい朝飯をたべ、出発の身支度をした。うすら寒い曇天である。宿の前で、Mさんとわかれ、N君と私は北に向って発足した。

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 途中、義経(ぎけいじ)に寄り、竜飛の1つ手前の部落で5合の酒を分けてもらいながら、2人は14キロを3時間かけて歩きます。
 その昔、奥州藤原氏にかくまわれていた源義経は、兄・頼朝の軍勢に攻められ、衣川で自刃したといわれていますが、三陸沿岸から青森、北海道、さらには大陸へと逃げ延びて、チンギス・ハーンとなったという義経北行伝説」も残っています。青森県の各地には、義経にまつわる伝説・名所が数多く伝えられています。

 さて、ここからの行程については、中村が太宰との津軽旅行を回想した津軽余談』から引用して紹介します。

 その当時、津軽半島は軍事的に重要な土地であった。(こと)三厩以北は警戒も厳重で、龍飛の手前の梹榔(ひょうろう)という部落には憲兵が駐在していたし、旅から来た人達は不審訊問されたり、行商人がスパイの嫌疑をうけたり、色々悲喜劇があったので私達も注意して歩くことにした。三厩まではバスが通うているが三厩以北は道路も狭くトンネルが五つも六つもあってバスが通れない。三厩から龍飛まで三里半の道を二人で歩いた。蟹田に居た時も相当風が強く、蟹田は風の町だね、などゝいったが、三厩を過ぎたら猛烈な風だ。とても蟹田の風とは問題にならない。
 「これあ、ひどい、」太宰も驚いたらしかった。「龍飛へ行くともっとひどくなるよ」と私がいったら、「そうか、すごい、すごい」といって歩いた。
 龍飛の近くへ来たら「三厩村大字尻神」と書いてある標札を見て、「これは村の名かね」ときいた。
 「尻神という村の名だ、へんな名だね」と私がいったら、「ひどい名だ、大不敬事件だ。」といって大いに笑った。
 進むに従って風景も変って来た。私は、「此辺(このへん)の風景は坐って眺める風景ではない、歩いて見る処によさがある。展開していく美だ。野性的美である」などゝつまらぬ説明をした。太宰は、すごい風景だ、すごい、すごい、を連発した。波のうねりも荒々しくなり風はいよいよ強く私達の体をゆすぶった。迎い風だったので真正面から風がぶつかって来るので体を幾分前へまげて進まなければならなかった。実に寒かった。悪い日に案内して来たものだと思った。太宰は元気で歩いている。然し時々、寒いなあ、と独り言のようにいう。私達は酒の事を話合ってこの寒さを我慢した。「悪い日に来たと思うまい、龍飛の龍飛らしさを味うには、却ってよかったのかも知れない」などゝ負惜しみな事を私がいったら、太宰は、「うむ、希望的解釈もよい」そんなことをいって元気を出し合って風に抗して歩み続けた。

 

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■竜飛部落の入り口

 太宰は作品「津軽」の中で龍飛の部落へはいった時のことを鶏舎小屋に頭を突込んだと思った、と書いてあるが、龍飛の人達は強い風が時々吹くので自分の家の前へ丸太や板を立てゝ風を防いでいる。その防風用の丸太や板が(へい)のように並んでいるのでそう思ったのだろうと思う。

 

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■竜飛の海岸沿いからの風景 遠くに北海道が見える。2018年5月、著者撮影。

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■太宰が竜飛で宿泊した「奥谷(おくや)旅館」 中村の親戚筋が経営していた。2018年5月、著者撮影。

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■奥谷旅館の入り口 1902年(明治35年)から1999年(平成11年)まで、約100年館営業したが、改装して、2008年(平成20年)4月から、龍飛岬観光案内所「龍飛館」として公開されている。2018年5月、著者撮影。

 私達は夕方五時近くになって龍飛の宿屋についた。二階のない小さな宿屋である。この辺は風が強いので何処の家も殆ど平屋である。二階のある家はほんの二三軒よりない。
 「気分のよい旅館だ。」
 どてらに着換えた太宰はそういって安心したように坐っている。私はその姿をみてうれしかった。三時間も強い風に吹かれて来たので寒くてたまらなかった。ひと風呂浴びたかったが、残念(なが)ら風呂がなかった。早く酒を飲んで体をあたゝめよう、ということになって宿の婆さんにお願いしてすぐ飲み出した。

 

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■「宿の婆さん」こと、初代女将・奥谷たん 太宰が宿泊した際は、たんと娘・光江(当時27歳)が接客した。

 私は間もなく酔いが廻って来た。例の牧水の旅の歌――幾山河越え去り行けば淋しさの果てなん国ぞ今日も旅行く――と上手でもないのに唄って、「どうだい」と彼を見たら、眼に涙を浮かべている。本州の最北端の来た彼は何を感じたのだろう、あの敏感な彼のアンテナにどのような電波が伝わったのであろうか、私は「これあ、いけない」と思い、やたら声を張りあげて別の歌を唄った。これがいけなかった。太宰が「津軽」の中で書いているように、酒は出なくなる。「歌こも出たからお休みなさい」と宿の婆さんに(とこ)を敷かれてしまい、とんでもない大失敗をしてしまった。

 

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■太宰と中村が宿泊した部屋 2018年5月、著者撮影。

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■奥谷旅館「宿泊人名簿」 太宰と中村の名前がある。本人たちの直筆ではないそう。2018年5月、著者撮影。

  奥谷旅館と道路を挟んで向かい側には、太宰治の文学碑が建立されています。ここ竜飛は、国道339号の終点でもあります。

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 この文学碑には、津軽から引用された、次の一文が刻まれています。

 ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向って歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。


5月19日、20日頃

 翌朝、太宰と中村は奥谷旅館を出発し、三厩までの14キロを徒歩で戻り、バスで蟹田の中村宅へ戻り、2、3日逗留しました。
 この日の朝の様子を、太宰は津軽で、次のように書いています。

 (あく)る朝、私は寝床の中で、童女のいい歌声を聞いた。翌る日は風もおさまり、部屋には朝日がさし込んでいて、童女が表の路で手毬歌(てまりうた)を歌っているのである。私は、頭をもたげて、耳をすました。
  せっせっせ
  夏もちかづく
  八十八夜
  野にも山にも
  新緑の
  風に藤波
  さわぐ時
 私は、たまらない気持になった。いまでも中央の人たちに蝦夷の土地と思い込まれて軽蔑されている本州の北端で、このような美しい発音の爽やかな歌を聞こうとは思わなかった。

 太宰が聞いたという歌の出だしは、有名な小学唱歌「茶摘み」と一緒ですが、

  夏も近づく八十八夜
  野にも山にも若葉が茂る
  あれに見えるは茶摘みじゃないか
  あかねだすきに(すげ)の笠

 と、現在、私たちが知っている歌詞と少し違うようです。

 さて、竜飛から中村宅のある蟹田まで向かう様子については、再び、中村の津軽余談』からの引用で紹介します。

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 翌日私は太宰に龍飛の燈台を見ることをすゝめた。燈台は龍飛の名所でもあるし、燈台の立っている小高い山に登れば日本海も見える。登ろうといったが、太宰は軍事上重要な地点なので、私に何か迷惑をかけても、と思ったらしく「専ら人の心の触れ合の研究だから」といってやめた。私達はまた同じコースを通うて私の家へ帰った。

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■龍飛岬の先端にある龍飛埼灯台


 太宰の『津軽』旅行③へ続く!

 【了】

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【参考文献】
・『写真集太宰治の生涯』(朝日新聞社、1968年)
・『太宰治研究 臨時増刊号』(審美社、1963年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治検定実行委員会テキスト編集部会 編集『太宰治検定・公式テキスト 旅をしようよ!「津軽」』(NPO法人 おおまち第2集客施設整備推進協議会、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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