4月23日の太宰治。
1925年(大正14年)4月23日。
太宰治 15歳。
四月 弟礼治が、青森中学校に進学し豊田家に止宿、同居することになった。
「N君」中村貞次郎 が語る中学時代
太宰の弟・津島礼治は、太宰の3つ下の弟です。
青森中学校に進学することになり、太宰が下宿していた豊田家に同居することになりました。太宰は、礼治と2人、囲炉裏を隔てて机を並べ、勉強しました。また、礼治と友人たちを集めて、常光寺の境内でテニスやキャッチボールをして遊んだそうです。
日曜日など休みの日には、礼治と友人を誘って、浅虫方面へピクニックに出掛け、枯枝や浜に落ちている木片などを集め、持参した肉を煮て、肉鍋をつつきながら葡萄酒を飲み、大声で歌を歌ったといいます。
今日は、そんな太宰の10代の頃について、太宰の中学時代からの親友・
■中学時代 左から、太宰、礼治、中村貞次郎
「大失敗した。浴槽の中で顔を洗ったので他の人達に笑われた。実に恥かしい思いをした。」太宰が青森中学校へ入った当時私にこう語った事がある。大正十二年の四月に太宰は青森中学校へ入学し、縁戚にあたる豊田呉服店に、金木からの旅装を解いた日――豊田呉服店の主人に連れられて町の銭湯へ行った時の事である。大地主の家に生れて育った彼は自分の家の据風呂のみを知って銭湯はそれまで全然知らなかったわけである。世間の事にうとかったのはその環境の故であろう。
中学四年生(大正十五年)の夏休みに私は金木の太宰の家で二週間位過した。受験勉強するという名目であった。太宰の生家は豪農の家らしく大きな邸宅であった。総二階で幾室も立派な部屋があった。そのうちに洋間が一部屋あってオルガンが置いてあった。階下の離れにも洋間があった。その洋間にはピアノを置いてあった。私は太宰に此のピアノは誰が弾くのか、訊ねたら「誰もひく人はないんだ、これは部屋の装飾だよ。」と答えた。私はその豪華さに唖然としたものであった。二階の洋間は絨 たんにしても、カーテンにしても、豹 の毛皮まであって豪華そのものであった。離れの洋間は、朝倉文夫の彫刻があったり、電気ストーブがあったりで、近代的な感じのする部屋であった。離れはこの洋間の外に日本間が二室あった。太宰の語るところに依れば、この離れは長兄文治氏が建てたもので、あの広大な母屋とほぼ同額の費用がかかったとの事であった。当時文治氏は金木町の町長をしておられた。三十二三歳だったろうと思う。女中さんは十二三人、男の使用人は帳場さん始め三四人居たようでした。家族の人達は八人位でしたから大世帯だったわけである。厳格な家庭のようであった。長兄文治氏が東京方面へ出張されて、お帰りという事になれば、十数人の使用人はずらっと廊下に並び、お帰りなさい、お帰りなさい、と異口同音に云 い乍 らお辞儀をして迎えるのがしきたりのようであった。地方の名家であったから当時としては家風とか、しきたり、など重んずるのは尤 もである。
その頃の太宰は他の家へ遊びに行く事を大変億劫がった。自分から友人の処へ遊びに出掛けて行くなどという事は殆 んどなかった。その故かピクニックは大変好きであった。主に浅虫方面の海岸へ出掛けた。この事は彼の作品『思い出』に書かれてある通りであるが、当時の中学生で太宰のように、鍋なんかわざわざ持っていって、枯枝や枯葉を集めて肉を煮て食べたりするロマンチックなピクニックをやる人はなかった。太宰は辛口で弟の礼二君は甘口だったので太宰が煮る場合と礼二君が煮る場合では鍋の味噌加減が大分違った。礼二君が煮るとどうしても甘いお汁になるので太宰は飲んでみては甘いからもっと味噌をいれるようにと督促 したものである。皆なで葡萄酒を飲んでは、肉鍋をつついた。食べ終えれば大きな声を出してうたを歌った。礼二君は一番上手であった。この時の太宰は本当に楽しそうであった。遊び疲れて岩の上で休んでいる太宰の姿を思い浮かべると全く満ち足りた幸福そうな太宰を感じるが、それと同時に彼の孤独の影を感じざるを得なかった。
■東京帝国大学1年生の時 左から、中村、太宰、葛西信造
中村は、太宰の東京での生活の証言者の一人でもあります。
【了】
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【参考文献】
・『臨時増刊 文藝 太宰治讀本』(河出書房、1956年)
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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