記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月3日

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4月3日の太宰治

  1945年(昭和20年)4月3日。
 太宰治 35歳。

 夜十二時に警報が出た。

東京大空襲」以後、甲府疎開まで

 3月10日の記事でも紹介しましたが、1945年(昭和20年)は、第二次世界大戦中、東京が106回の空襲を受けた中でも、最も被害が多い10万人以上の死者が出たといわれる東京大空襲があった年でした。この1回の空襲だけで、罹災者は100万人を超えました。

 今日は、この3月10日の東京大空襲以後、甲府疎開するまでの太宰の足跡を辿ってみます。東京大空襲直後については、ぜひ3月10日の記事をご参照下さい。
 それでは、東京大空襲の翌日、3月11日から始めます。

3月11日
 伊馬春部、舞台俳優の丸山定夫(まるやまさだお)(1901~1945)と、「コスモス」や新宿の「秋田」で酒盃を傾け、深更、酔余のまま別れた。数日後、伊馬春部は、召集令状が来て、北支派遣第一五七一三部隊に所属して戦場に赴き、「新劇の団十郎」とも称された丸山も、やがて慰問巡演の移動劇団「桜隊」として広島に行き、広島市堀町69番地中国寮に居てアメリカ空軍の投じた原子爆弾の犠牲となりました。

 丸山は、愛媛県出身。大正時代に確立された築地小劇場にはじまる日本の新劇界を背負った一人で、その後、徳川夢声らと「苦楽座」を結成。第二次世界大戦の戦乱極まる1945年(昭和20年)、東京で興行する場を失い「苦楽座」は解散。「桜隊」として、各地を慰問する移動演劇連盟に組み込まれたのでした。

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丸山定夫

 「桜隊」が中国地方の軍需工場や病院での慰問公演を受け持つため、広島へ活動拠点を移したのが、同年6月。
 寄宿舎兼事務所の民家は、原爆の爆心地から約750mの距離でした。宿舎は全壊。丸山をはじめ、9人が亡くなりました。5人が即死や焼死。丸山ら4人は脱出しましたが、8月中に死亡。享年44歳でした。

 同じく「桜隊」で、32歳で亡くなった岩手県出身の園井恵子(そのいけいこ)(1913~1945)は、今の宝塚歌劇団出身。宝塚退団後、歌舞伎俳優・阪東妻三郎(通称:阪妻(ばんつま))と共演した映画無法松の一生(1943年)のヒロイン役でスターとなりました。この『無法松の一生』については、4月2日の記事で紹介したエッセイ芸術ぎらいの中で、太宰も言及しています。

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園井恵子

 映画会社との専属契約の話もありましたが、「まだ未熟なので演劇を勉強したい」と、丸山の元を訪れたそうです。地方巡業でも、車夫の無法松を丸山が演じ、未亡人役は、映画同様、園井が演じました。
 『無法松の一生』は、戦時中、「車夫が軍人の未亡人に恋慕するとは何事か」と、一部カットされ、戦後も軍歌を歌うシーンなどが連合軍にカットされるなど受難を繰り返し、芸術の自由や表現の自由を考える教材にもなりました。

 この頃、太宰は、お伽草紙の「前書き」を書き終え、「瘤取り」を2、3枚書き始めていたといいます。


3月14日
 甲府に住む太宰の義母、妻・美知子の母である、石原くらが逝去します。享年71歳でした。


3月17日

 硫黄島の失陥が公表されました(実際は、その後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し、壊滅。これにより、日米の組織的戦闘は終結した)。

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■「硫黄島星条旗」を象った合衆国海兵隊戦争記念碑


3月末
 太宰は、妻・美知子、長女・園子、長男・正樹の3人を甲府に送り、甲府の妻の実家・石原家に疎開させました。石原家では、当時、石原明が当主だったが、軍務に就いていて、石原愛子が1人で留守宅を守っていた。太宰は、弟子の小山清と2人で、東京に残留する覚悟だったそうです。

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■妻・石原美知子とその家族と。1939年(昭和14年)正月、甲府市水門町の石原家の玄関横で。前列左から、太宰、義母・石原くら。中列左から、義妹・愛子、美知子、義姉・富美子。後列、義弟・明。


4月1日
 18万5,000人のアメリカ軍が、沖縄本島に上陸。


4月2日
 未明、太宰は妻子を甲府に送って帰京した直後、三鷹アメリカ空軍の攻撃にさらされ、自宅周辺一帯に爆撃を受けました。

 三鷹アメリカ空軍の爆撃を受ける理由は、2月25日の記事で、三鷹の歴史と共に紹介しました。

 その頃、横浜に住んでいた弟子の田中英光が、たまたま前夜から三鷹の太宰宅に宿泊していて、小山清と3人で表の小さな防空壕に避難。アメリカ空軍機Bー29が凄まじい音を立てて低空で飛んで行った直後、落雷とともに激しい地響きがあって、壕の土が崩れて、胸まで生き埋めになったといいます。
 土は軟らかかったため、這い出して助かりましたが、「すぐ傍には巨大な庭石が飛んできてい」ました。この表現は、太宰お得意の誇張も含まれているような気がしますが、自宅裏と西側とに爆弾が落とされ、家の西側が破壊されたそうです。
 この夜の空爆で、三鷹下連雀二町会の住民56人が亡くなっています。

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4月3日
 夜12時に警報が出ました。


4月4日
 午前2時頃、関東北部へアメリカ空軍機の編隊が侵入し、太田方面を爆撃。3時頃になると、第二編隊が現われて、再び東京を火の海に包みました。爆音が近づいて遠ざかると、地上にいくつもの火の山が盛り上がりました。腹に響く爆発音が伝わって、その度に家がゆらゆらと揺れたといいます。
 この状況が、朝の4時まで続き、その後、「時限爆弾が危険」ということで、小山清と共に、4、5日の間、吉祥寺2761番地の亀井勝一郎方に身を寄せ、甲府の石原家へと移りました。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「論座 原爆で全滅した桜隊
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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