記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】かくめい

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今週のエッセイ

◆『かくめい』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1947年(昭和22年)12月上旬頃に脱稿。
 『かくめい』は、1948年(昭和23年)1月1日発行の「ろまねすく」第一巻第一号の「独語」欄に発表された。ほかには、辰野隆田村泰次郎伊藤整などが執筆している。

「かくめい

 じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても(、、、、、)、他におこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からの革命が、いつまでも、できないのです。

 

別所直樹、最後の思い出

 今回のエッセイ『かくめい』は、漢字で書かれた「革命」と平仮名で書かれた「かくめい」が混在し、「にんげん」や「おこない」は全て平仮名で書かれています。"言葉"に敏感だった太宰の書く文章としては、とても異様に感じられます。
 では、太宰は、なぜこのような文章を書いたのか。それは、「革命」や「人間」を漢字で書くのが嫌だったからではないでしょうか。
 太宰にとって「革命」とは、青年時代に関与した非合法の共産主義革命のことでした。長かった戦争が終わり、新しい時代が訪れ、「革命」が起こると期待する声もありました。しかし、革命は起こりませんでした。
 太宰の心の中にも、青年時代の夢が甦っていたかもしれません。でも現実は、エゴイスト、時流に乗じた便乗思想家、エセ文化人が横行しただけでした。
 かつて「天皇陛下万歳」と叫んでいた人たちが、今度は「民主主義万歳」と叫んでいるだけ。「人間」は変わらず、口にする言葉が変わっただけ。それでは、「革命」なんか起こらない。まずは、「人間」が変わる必要がある。そんな想いから、太宰はこのエッセイを執筆したのかもしれません。

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 今回のエッセイ『かくめい』は、太宰の弟子・別所直樹の書いたエッセイにも登場します。別所の著書郷愁の太宰治所収『最後の正月』を引用して紹介します。

 ぼくが最後に太宰さんにお逢いしたのは、昭和二十三年一月八日であった。宮崎譲さんと一緒だった。新年の挨拶に、三鷹の"千草"に行った。
 ぼくはその家のことをおぼろげに知っていたが、仕事が忙しいと思うので、何時(いつ)もお宅の方ばかり訪ねていた。そして(ほとん)ど逢えなかった。
 ある時、田中英光さんに、その話をした。
 ――秘訣を教えてあげよう。あんただからいいだろう」
 英光さんはニヤリと笑って"千草"を教えてくれたのである。
 太宰さんは、ごく親しい人、仕事関係の人にしかこの連絡場所を教えなかったようである。
 ぼくらは"千草"の座敷に通され、コタツに入って待っていた。太宰さんは(あご)()でながら着物姿で現われた。明るい、元気な声と共に、裏口から入って来た。その時はもう大分酔っておられたらしい。
 ――丁度いい所に来てくれた。今日、ぼくを家までつれてって下さい」
 太宰さんはそう呟いて、後を振り返るような仕種(しぐさ)をした。山崎富栄さんの影におびえているような、それをお道化(どけ)て表現したような口調だった。
 ――おんなは、狐みたいだね。細長い顔をして、それに眼がつり上ってるんだ。怒っている時がすごい。
 何か気に食わないことがあると、階段をダダダダと()け下りて、便所の戸をガラガラピシャンとやって……。それから、シャーだ」
 太宰さんは、さも怖ろしそうな様子で、首を(ふすま)の方に向けた。

 

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■山崎富栄 1947年(昭和22年)に太宰と出逢った頃。太宰の話題、「何か気に食わないことがあると…」のくだりは、小説眉山にも登場するエピソード。

 

 太宰さんの話の通り、山崎さんの部屋は、玄関のとっつき、すぐに階段があり、二階の六畳だった。階段の突き当りに、そう言えば便所があった。
 ――そして、俺を脅迫するんだ。私は何時(いつ)でも薬を持っていますからね、なんて言ってね。俺の留守中に家に行って、子供に毒でも飲まされたら最後だからなあ。女はこわい、こわい……。
 大体、あの女は、一人でなら二年ぐらい暮せる貯金があったんだ。そいつを、俺がみんな飲んじゃったんだ」
 そんなことを言って、首をすくめて見せながら、
 ――ところで、俺に若い恋人が出来たんだ」
 ――当ててみせましようか。年は二十五」
 ぼくは即座に返答した。
 ――いや、いや、違う。もっと若いんだ。二十三だ」
 太宰さんは真面目そうな顔でそう言ったが、眼は笑っていた。
 やがて、山崎さんがやって来た。髪をアップに結い上げ、細い襟足を見せた山崎さんの顔を、ぼくはまじまじとみつめた。
 そんな、自分の噂を知ってか知らずか、山崎さんは太宰さんの傍にいそいそと坐るのだった。
 太宰さんは慌てて話題を転換した。
 ――別所の詩を「(ます)」の特集でみた。あんなもので安心しちゃ駄目だぞ。大体、詩は、やたらに行を代えるけれど、行を代える必然性がないじゃないか。
 どうしても、行を代えなければならぬ、絶句して、とても、このままでは続けられぬ、という所に来て、行を代えるのでなければ本物じゃない。今の、日本の詩は、その点だけでも安易すぎる」
 ぼく自身、非常にあやふやな気持で行分けに疑問を持ち、散文詩も書いたりしていたので、この言葉は耳に痛かった。ぼくは話題を転換して、この苦境を乗り切ろうと図った。
 ――先生の「かくめい」というエッセイを拝見しました。あの文章が載っている「ろまねすく」という雑誌は、友人の本多高明がやってるんです」
 ――意味が判るか」
 さて、とぼくは思った。非常に短いエッセイだが、平仮名ばかりで書かれたもので、少々酔いの廻ってきたぼくには、その意味がはっきり思い出せないのである。
 ――駄目だぞ、別所は……。よく理解出来ぬのに、人の作品について、とやかく言っては……」
 滅多に怒られたことのないぼくは、常に似ぬ太宰さんの(はげ)しい言葉に、しゅんとなって(しま)った。ぼくはがぶがぶと酒を(あお)った。

 

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■1948年(昭和23年)撮影 写真左「瀧本歯科」と書かれた電柱奥の長屋に「千草」があった。道路を挟んだ向かい、「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が富栄の下宿先。富栄の下宿先から「千草」は、歩幅にして10歩ほどの距離しかない。道の突き当りが、玉川上水。富栄の部屋から玉川上水は、約70歩ほどの距離しかなかった。

 

 太宰さんは、ちょっと失敬、といって身体を横たえ、右手で頭を支えていたが、急に起き直ってまた話し出す。
 ――日本人は、世界中のもてあまし者にならねばいけない。日の丸の国旗なんか、もういらないのだ。のん気な父さんかなんかを国旗にするんだナ。ものすごくでかいのん気な父さんを(ひろ)げるんだ。外国の飛行機が来て、そいつを見たら、もう、馬鹿馬鹿しくなって、戦争なんかしかけなくなるだろう。ぼくらはリベルタン無頼派にならなくちゃいけない。それだけが日本を救う道だ」
 ぼくらはけらけら笑い、のん気な父さんの国旗説に同感した。しかし、笑いは表面だけでぼくは心の中でギクリとしていた。太宰さんは酔ってこのような言葉を言ったのではない。それは真実の言葉なのだ。
 ぼくは酒を殺して飲んでいた。外に出ると酔いが一時に廻って、だらしなくよろめいた。人喰い川に沿って、四人は太宰さん宅に向った。
 桜の枝が流れに影を落していた。狂い咲きの小さな花びらが、それでもニ、三輪咲いて、弱い陽差しの中でふるえていた。

 

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玉川上水沿いに(たたず)む太宰 玉川上水は「人喰い川」とも呼ばれた。太宰が山崎富栄と心中した1948年(昭和23年)、太宰は16人目の投身者だった。1948年(昭和23年)2月23日、田村茂撮影。

 

 ぼくは無性に太宰さんに甘えたかった。本当に久しぶりでお眼にかかれたのである。昔が懐しかった。戦争中は太宰さんを訪問する人が限られていた。行けば大抵逢えた。それが、今は違う。
 太宰さんは滅多に家には居ない。仕事場に行っては失礼だと思うから、次第に太宰さんに逢う機会は少くなったのである。
 その頃ぼくは、多くのジャーナリストを憎んだ。太宰さんの周囲には、何時(いつ)もジャーナリストがいたから……。
 ぼくは甘ったれて太宰さんの肩を抱いた。太宰さんは苦笑した、弱々しい声が流れた。
 ――別所、重いよ」
 太宰さんの身体が衰弱していることを、おろかなぼくは見抜けなかったのだ。太宰さんの顔色は、酒の故もあったろうが、明るかった。ぼくはその顔色に安心していたのだ。
 道の曲り角に来た。太宰さんが突然言った。
 ――別所は大変酔っているから、あなたが駅まで送って行ってあげなさい」
 そして太宰さんは、(たもと)からラッキー・ストライクを取り出して山崎さんに渡した。
 ――これは別所のお土産だ」
 太宰さんと宮崎さんは行ってしまった。
 ぼくは山崎さんと三鷹駅へ向った。突然、山崎さんの下駄の鼻緒が切れたぼくはすぐにポケットからハンカチーフを出して破いた。もう大分使い古したハンカチーフはすぐに破れた。ぼくはしゃがんで、おぼつかない手つきで鼻緒をすげた。
 ――有難う」
 山崎さんの嬉しそうな声が響く。
 ああ、しかし、鼻緒はまたも切れたのである。ぼくはまたハンカチーフを破いた。ぼくはその時ほど自分の貧乏がうらめしかったことはない。新しいハンカチーフが欲しかった。純白の丈夫なハンカチーフが……。ぼくらは駅の前で別れた。握手した。それが山崎さんと逢った最後であった。太宰さんともそれが最後だった。
 ――別所。重いよ」
 その言葉が、今もぼくの耳にはっきり残っている。ぼくは最後まで太宰さんに甘ったれ通しだったのだ。
 ぼくは淋しくて仕様がなかった。その足で新宿、花園町の田中英光さんを訪ねた。
 英光さんは二間の家の、奥の部屋で仕事の最中だった、あの部屋は六畳だったろうか。玄関の、とっつきの部屋がたしか三畳間だった。

 

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■太宰の弟子・田中英光と長女・弓子 1949年(昭和24年)10月、宮城県鳴子温泉にて。

 

 ドテラを着た英光さんは、アグラをかいて、茶ブ台に(ひろ)げた原稿用紙に小さな丸まっちい字を埋めていた。六尺豊かな英光さんらしかぬ、小さな字であった。英光さんの傍には敬子さんが、ハンテンを羽織って坐っていた。この女性は、後になって英光さんが半狂乱の果て、腹を刺した女性である。家も彼女の物だった。英光さんは当時、(ほと)んどこの家で生活していた。夫人、子供さんたちは静岡県三津浜にいたのである。
 英光さんは傍に置いてある一升瓶を持って茶碗に焼酎をついでくれた。英光さんも、ぐびり、ぐびりと焼酎をあふりながら仕事をしていたのだった。
 ぼくは、よほど、哀れな顔をしていたらしい。そして、ポケットからラッキー・ストライクを取り出して、英光さんにすすめた。
 ――オッ、すごいじゃないの……」
 ――ええ、太宰さんに戴いて来たんです。ぼく、太宰さんに、酔っぱらいすぎて、おこられちゃった……」
 ――どうしたの?」
 英光さんは、ちょっとぼくの眼を覗き込んだ。
 ――酔っぱらって、太宰さんの肩を抱いたんです。そしたら、別所、重いよって言われて、追い返されちゃったんです。この煙草、太宰さんにお土産に戴いたんです」
 ――大丈夫、大丈夫、別所さん、太宰さんは本気でなんかおこっていやしませんよ。元気を出して、焼酎でも飲みなさい」
 英光さんは笑いながらぼくを激励してくれた。
 その日、英光さんは急ぎの仕事をしている様子だったので、ぼくは間もなく別れた。
 それからのぼくは、何時(いつ)も冷やかされるのであった。ぼく一人の時も、他の人が傍にいても、
 ――別所さんはねえ、太宰さんにおこられたといって、おんおん泣きながら、ぼくの家に来たんですよ」
 そして、いたずらっぽい眼でぼくの眼を覗き込むのだった。
 ――ひでえなあ、英光さん、ぼく、おんおんなんて泣きゃしませんよ」
 ぼくは何時(いつ)も慌てて否定するのだった。

 

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■別所直樹 詩人、評論家。太宰の弟子。三鷹にある、禅林寺の太宰の墓に詣でる別所。

 【了】

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【参考文献】
・別所直樹『郷愁の太宰治』(審美社、1964年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
 ※引用にあたり、一部人名表記を改めました。
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