記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】小志

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『小志』
 1947年(昭和22年)、太宰治 38歳。
 1947年(昭和22年)11月10日前後頃に脱稿。
 『小志』は、1947年(昭和22年)11月17日発行の「朝日新聞」第二二一六三号の第二面「学芸」欄に新仮名遣いで発表された。

「小志

 イエスが十字架につけられて、そのとき脱ぎ捨て(たま)いし真白な下着は、上から下まで縫い目なしの全部その形のままに織った実にめずらしい衣だったので、兵卒どもはその品の高尚典雅に嘆息をもらしたと聖書に録されてあったけれども、
 妻よ、
 イエスならぬ市井(しせい)のただの弱虫が、毎日こうして苦しんで、そうして、もしも死なねばならぬ時が来たならば、縫い目なしの下着は望まぬ、せめてキャラコの純白のパンツ一つを作ってはかせてくれまいか。

 

太宰とキリスト

 太宰の弟子・小山清は、「太宰治が、その文学活動の初期から最後に至るまで、最も関心を持っていた対象はキリストであろう」と書いています。
 小山の指摘する通り、太宰はその生涯にわたって、キリストに対し深い関心を持っていました。そして、太宰のキリスト像、太宰にとってのキリストの意味は、その時期によって変化していきました。その時期は、

 ①1936年(昭和11年)
 ②1941~1942年(昭和16~17年)
 ③1946~1948年(昭和21~23年)

の3つに分けることができます。

①1936年(昭和11年)

 この頃の太宰は、新しい文学を目指し、「二十世紀の旗手」(二十世紀旗手)との自負を持っていましたが、作品はなかなか正当に評価されず、悩んでいた時期でした。そのため、自分の意に反し、韜晦(とうかい)的な態度と作品への説明が必要だと考えます。
 しかし、本来は自作への解説を嫌う太宰は、「なんじら断食するとき、かの偽善者のごとく、悲しき面持ちをすな。(マタイ六章十六)キリストだけは、知っていた」(虚構の春)と書きます。つまり、太宰は、キリストに自分と同じ考えを見い出し、自身の支えとしました。

f:id:shige97:20200707080307j:image

 やがて、太宰にとってキリストは、同一化の対象となっていきます。佐藤春夫との約束により受賞を信じていた第三回芥川賞は落選。太宰は文壇の約束違反と抗議しますが、かえって自分を窮地に追い込む結果となります。
 この体験を通して、太宰は、無実にもかかわらず罰せられたキリストに自分の姿を見い出し、重ね合わせていきます。キリストと自身を同一化することで、慰めを得ようとしました。
 このキリスト受容は、東京武蔵野病院で、さらに展開します。
 「あざむ」かれ、「脳病院にぶちこまれ」た(HUMAN LOST)と感じていた太宰は、キリストとの同一化により、自己合理化を行い、キリストを「他者に理解されない苦しみと孤独において共感する相手」と位置づけました。

f:id:shige97:20200211171710j:image
■太宰が武蔵野病院入院中に手にした聖書 太宰と同様に入院していた医師・斎藤達也から借りた、黒崎幸吉編『新約聖書略註 全』(四六版、日英堂書店、1934年)。

 やがて、キリストは他者との和解という、退院への道筋やその後の身の振り方を太宰に示していきます。さらに退院後、不安と絶望のどん底にいた太宰に、「生きる力」()を与えました。
 キリストは、同一化の対象から、「生」の指針を与える存在として、位置づけが移っていきました。


②1941~1942年(昭和16~17年)

 この頃の太宰は、「明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります」(私信)、「一日一日を、たっぷり生きて行くより他は無い。明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。きょう一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮したい」(新郎)と、この時期を生きる自分の決意を語っています。

f:id:shige97:20220316143230j:image

 「明日の事を思うな」「明日の事を思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん」は、マタイ伝六章三十四節にあるキリストの言葉です。
 戦争の激化という明日の命さえ分からない状況を生きる太宰にとって、自分を支え、励ましてくれる存在として、キリストは位置していました。

f:id:shige97:20220315133528j:image
■ロシアの画家 ニコライ・ゲー『最後の晩餐(1861~1863)』 「ロシヤのゲエとかいう画家のかいた『最後の晩餐』の絵は、みんな寝そべっているそうである。キリストの精神とは、全く関係の無い事だが、僕には、とても面白かった。」(正義と微笑


③1946~1948年(昭和21~23年)

 敗戦により、太宰は今までの習俗的倫理の崩壊による、人間性の解放を期待しました。しかし、現実は、エゴイスト、時流に乗じた便乗思想家、エセ文化人が横行していました。太宰は、彼らに対し、「もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ! おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりやしないのだよ(十五年間)」と批判しています。

f:id:shige97:20200504193234j:plain

 さらに、如是我聞では、外国文学者、志賀直哉らを「家庭のエゴイズム」「自己肯定のすさまじさ」、つまり「愛する能力」の欠如ゆえに攻撃し、それは「反キリスト的なものへの戦い」と位置づけられます。太宰にとってキリストは、彼等と対極の存在であり、自己の批判を「反キリスト的なものへの戦い」と位置づけることによって、批判は意味を持ち、正当化が可能となりました。
 つまり、太宰はキリストに自分を擬すことで、批判の、さらに存在の根拠を得ていたと考えられます。
 その一方、「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっている」(如是我聞)と、キリストは太宰の存在を揺るがしてくる存在でもありました。
 この時期の太宰にとって、キリストは、存在の根拠であると同時に、「苦悩」をも与える、二律背反的な意味を持っていたと考えられます。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治の全エッセイ、
 バックナンバーの一覧はこちら!】