5月4日の太宰治。
1947年(昭和22年)5月4日。
太宰治 37歳。
山崎富栄、五月三日、五月四日の日記。
富栄、歓びと葛藤と
太宰と山崎富栄が出逢ったのは、1947年(昭和22年)3月27日。
今日は、この出逢いから約1ヶ月が経った、同年5月3日、4日付の富栄の日記を紹介します。
■YMCA(キリスト教女子青年会)時代の富栄
五月三日
“伊豆の地平線はちょうど私のお乳のさきにさわるくらいの高さに見えた”
一番初めにお目にかかったときにも、耳にしたこの御言葉。そして、その後幾度でも耳にする御言葉。かの子の「つれづれと女なる身のはずかしさ、悲しさ覚ゆ乳房いだけば」を思い起こす。
先生は詩人だと思う。先生の作品からは私は詩を感じて仕方がない。当の先生は、お逢いすると十字架を背負っている人のようにみえるのに。人生のピエロ。一番むずかしい役割である。
言葉は表現できない真実なもの、真実な悩みを体当りさせられているようで、もし私に先生の抱く苦しみの一つでも理解することができ、語られたらと思わずにはいられない。
先生は、ずるい
接吻はつよい花の香りのよう
唇は唇を求め
呼吸は呼吸を吸う
蜂は蜜を求めて花を射す
つよい抱擁のあとに残る、涙
女だけしか、知らない
おどろきと、歓びと
愛しさと、恥ずかしさ
先生はずるい
先生はずるい
忘れられない五月三日
“死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか”
”死ぬ気で、恋愛? 本当はこうしているのもいけないの……”
”有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ”
”うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい……”
”そうでしょう!”
”奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくては、いけませんわ”
”それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とてもしっかりしているんだから”
”先生、ま、ゆ、つ、ば”
I love you with all in my heart but I can't do it.
何処にもおビールがなく、私の缶ビールを籠に入れて、思想犯の独房にのこのこ上がり、御一緒に飲む。
五月三日、新憲法発布の日、ほのぼのとした月の感覚だった。そして先生の背はいつものようにまるい、雨あがりの道は足を吸いこんで放さない。唸りたいような声を押えて堤を折れる。
テッサの心以外、何ものもない今の私。
”困ったなあー”
“涙は出ないけれども泣いたよ”
”死なない?”
”一生こうしていよう”
”困ったなあー”
先生の腕に抱かれながら、心よ、先生の胸を貫けと射る――どうにもならないのに。いつまでもお幸せで、いつまでもお幸せでと。
忘れられない――振り返って、もう一度とび込んできて下さった心。心……ああ、人の子の父である人なのに、人の妻である人なのに――”君を好き!”先生、ごめんなさい。
太宰は「有るんだろう? 旦那さん」と言っています。
富栄は、1944年(昭和19年)12月9日に、三井物産社員の奥名修一と結婚しますが、奥名は同月21日にマニラ支店へ異動となり、単身赴任します。マニラ到着後、アメリカ軍上陸のため現地招集され、マニラ東方の戦闘に参加したまま、行方不明となっていました。奥名は、1945年(昭和20年)1月17日にバギオ南方20キロの地点で戦死していましたが、富栄が奥名の戦死の公報を受け取ったのは、1947年(昭和22年)7月7日でした。
五月四日
先生の心なんか分からない。
分かるもんか!
馬鹿。分かるもんか!
頭が渾沌 としてしまって空廻りだ。
女。唯それだけのもの。飽和状態の私。
どうしていいのか、拭いとりたい気もするし、ずるずると入りこんでしまいたい気もする。
おい、お前! 助けてくれ。酔えなくなったのはお前のせいだ。鼻もちならない! ウンフフ、馬鹿々々、消えろ、消えてしまえ。やい、とみえ、起きろ、路傍の花など摘んでくれるな。いや、もういいや。
奥名と結婚した後、行方が分からなくなってから、約2年半。
富栄の中にも、葛藤があったようです。
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰文学研究会、1976年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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