記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月6日

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4月6日の太宰治

  1948年(昭和23年)4月6日。
 太宰治 38歳。

 朝、石井さんみえて、書物をとりにゆかれる。野平さんの口述筆記(如是我聞(にょぜがもん)二回)はじめられる。 ―山崎富栄の日記より

如是我聞(にょぜがもん)』の口述筆記①

 朝、太宰を訪問したという「石井さん」とは、筑摩書房の出版部員・石井立(いしいたつ)、「野平さん」とは、新潮社の担当者・野平健一のことです。

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三鷹の若松屋で。左から太宰、女将、『斜陽』などを担当した新潮社の担当者・野原一夫と野平健一。1947年(昭和22年)、伊馬春部が撮影。

 この日、太宰が野平に口述筆記させた、エッセイ『如是我聞』。太宰を語る際、最も引用されることが多いエッセイでもあります。

 口述筆記をした野平は、『矢来町半世紀』の中で、

 『如是我聞』は、「新潮」が、板のように薄い太宰治の胸を金槌でなで、塩辛とんぼの尾の如く細い腕をヤットコでおびやかす態そのまま、無理無体、ねばねばしつこく喰いついて、宛然「命ずる」が如き有様で書かせたのであるから、無茶も度が過ぎるぞ、屋形舟に大根積ませるようなことは止めろ、太宰の才を殺し、いびる者は、かの「新潮」の貪婪強欲作家いじめ猫かぶり狐狸の知慧で、最下等のジャアナリズムである、太宰には、ただ小説を書かせれば、それが気品もった雑誌道だ、と、この巷間流説は、はっきり言います。巷間人の無感覚、無理解、乃至(ないし)嘘である。
 『如是我聞』は太宰氏がいやいやではなく、みずから選まれた一個の果実であった。だれの口添でもない、声援でもない、氏みずからの魂である。

と書いています。

 太宰「みずからの魂」であるという『如是我聞』。
 今日は、四回に分けて「新潮」に連載された文章のうち、一回と二回を全文引用して紹介します。

如是我聞(にょぜがもん)


     

 他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
 これは、仏人ヴァレリイの(つぶや)きらしいが、自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たようなので、様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設け、こんなことは大袈裟(おおげさ)とか、或いは気障(きざ)とか言われ、あの者たちに、顰蹙(ひんしゅく)せられるのは承知の上で、つまり、自分の抗議を書いてみるつもりなのである
 私は、最初にヴァレリイの呟きを持ち出したが、それは、毒を以って毒を制するという気持もない訳ではないのだ。私のこれから撃つべき相手の者たちの大半は、たとえばパリイに二十年前に留学し、或いは母ひとり子ひとり、家計のために、いまはフランス文学大受け、孝行息子、かせぐ夫、それだけのことで、やたらと仏人の名前を書き連ねて以て所謂(いわゆる)「文化人」の花形と、ご当人は、まさか、そう思ってもいないだろうが、世の馬鹿者が、それを昔の戦陣訓の作者みたいに迎えているらしい気配に、「便乗」している者たちである。また、もう一つ、私のどうしても嫌いなのは、古いものを古いままに肯定している者たちである。新らしい秩序というものも、ある筈である。それが、整然と見えるまでには、多少の混乱があるかも知れない。しかし、それは、金魚鉢に金魚()を投入したときの、多少の混濁の如きものではないかと思われる。
 それでは、私は今月は何を言うべきであろうか。ダンテの地獄篇の初めに出てくる(名前はいま、たしかな事は忘れた)あのエルギリウスとか何とかいう老詩人の如く、余りに久しくもの言わざりしにより声しわがれ、急に、諸君の眠りを覚ます程の水際立った響きのことは書けないかも知れないが、次第に諸君の共感を得る筈だと確信して、こうして書いているのだ。そうでもなければ、この紙不足の時代に、わざわざ書くてもないだろう、ではないか。
 一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
 家庭である。
 家庭のエゴイズムである。
 それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。 私は、或る「老大家」の小説を読んでみた。何のことはない、周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せているだけであった。軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである。
 世の中をあざむくとは、この者たちのことを言うのである。軽薄ならば、軽薄でかまわないじゃないか。何故、自分の本質のそんな軽薄を、他の質と置き換えて見せつけなければいけないのか。軽薄を非難しているのではない。私だって、この世の最も軽薄な男ではないかしらと考えている。何故、それを、他の質とまぎらわせなければいけないのか、私にはどうしても、不可解なのだ。
 所詮(しょせん)は、家庭生活の安楽だけが、最後の念願だからではあるまいか。女房の意見に圧倒せられていながら、何かしら、女房にみとめてもらいたい気持、ああ、いやらしい、そんな気持が、作品の何処(どこ)かに、たとえば、お便所の臭いのように私を、たよりなくさせるのだ。
 わびしさ。それは、貴重な心の糧だ。しかし、そのわびしさが、ただ自分の家庭とだけつながっている時には、はたから見て(すこぶ)るみにくいものである。
 そのみにくさを、自分で所謂「恐縮」して書いているのならば、面白い読物にでもなるであろう。しかし、それを自身が殉教者みたいに、いやに気取って書いていて、その苦しさに(えり)を正す読者もあるとか聞いて、その馬鹿らしさには、あきれはてるばかりである。
 人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。
 ためになる。
 それが何だ。おいしいものを、所謂「ために」ならなくても、味わなければ、何処に私たちの生きている証拠があるのだろう。おいしいものは、味わなければいけない。味うべきである。しかし、いままでの所謂「老大家」の差し出す料理に、何一つ私は、おいしいと感じなかった。
 ここで、いちいち、その「老大家」の名前を挙げるべきかとも思うけれども、私は、その者たちを、しんから軽蔑(けいべつ)しきっているので、名前を挙げようにも、名前を忘れていると言いたいくらいである。
 みな、無学である。暴力である。弱さの美しさを、知らぬ。それだけでも既に、私には、おいしくない。
 何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である。私は、日本の(この日本という国号も、変えるべきだと思っているし、また、日の丸の旗も私は、すぐに変改すべきだと思っている。)この人たちは、ダメだと思う。
 芸術を享楽する能力がないように思われる。むしろ、読者は、それとちがう。文化の指導者みたいな顔をしている人たちのほうが、何もわからぬ。読者の支持におされて、しぶしぶ、所謂不健康とかいう私(太宰)の作品を、まあ、どうやら力作だろう、くらいに言うだけである。
 おいしさ。舌があれていると、味がわからなくて、ただ量、或いは、歯ごたえ、それだけが問題になるのだ。せっかく苦労して、悪い材料は捨て、本当においしいところだけ選んで、差し上げているのに、ペロリと一飲みにして、これは腹の足しにならぬ、もっとみになるものがないか、いわば食慾に於ける淫乱である。私には、つき合いきれない。
 何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。
 或る「老大家」は、私の作品をとぼけていていやだと言っているそうだが、その「老大家」の作品は、何だ。正直を誇っているのか。何を誇っているのか。その「老大家」は、たいへん男振りが自慢らしく、いつかその人の選集を開いてみたら、ものの見事に横顔のお写真、しかもいささかも照れていない。まるで無神経な人だと思った。
 あの人にとぼけるという印象をあたえたのは、それは、私のアンニュイかも知れないが、しかし、その人のはりきり方には私のほうも、辟易(へきえき)せざるを得ないのである。
 はりきって、ものをいうということは無神経の証拠であって、かつまた、人の神経をも全く問題にしていない状態をさしていうのである。
 デリカシィ(こういう言葉は、さすがに照れくさいけれども)そんなものを持っていない人が、どれだけ御自身お気がつかなくても、他人を深く痛み傷つけているかわからないものである。
 自分ひとりが偉くて、あれはダメ、これはダメ、何もかも気に入らぬという文豪は、恥かしいけれども、私たちの周囲にばかりいて、海を渡ったところには、あまりにいないようにも思われる。
 また、或る「文豪」は、太宰は、東京の言葉を知らぬ、と言っているようだが、その人は東京の生れで東京に育ったことを、いやそれだけを、自分の頼みの綱にして生きているのではあるまいかと、私は疑ぐった。
 あの野郎は鼻が低いから、いい文学が出来ぬ、と言うのと同断である。
 この頃、つくづくあきれているのであるが、所謂「老大家」たちが、国語の乱脈をなげいているらしい。キザである。いい気なものだ。国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる。あの人たちは、大戦中でも、私たちの、何の頼りにもならなかった。私は、あの時、あの人たちの正体を見た、と思った。
 あやまればいいのに、すみませんとあやまればいいのに。もとの姿のままで死ぬまで同じところに居据ろうとしている。
 所謂「若い者たち」もだらしがないと思う。雛段(ひなだん)をくつがえす勇気がないのか。君たちにとって、おいしくもないものは、きっぱり拒否してもいいのではあるまいか。変らなければならないのだ。私は、新らしがりやではないけれども、けれども、この雛段のままでは、私たちには、自殺以外にないように実感として言えるように思う。
 これだけ言っても、やはり「若い者」の誇張、或いは気焔(きえん)としか感ぜられない「老大家」だったなら、私は、自分でこれまで一ばんいやなことをしなければならぬ。脅迫ではないのだ。私たちの苦しさが、そこまで来ているのだ。
 今月は、それこそ一般概論の、しかもただぷんぷん怒った八ツ当りみたいな文章になったけれども、これは、まず自分の心意気を示し、この次からの馬鹿学者、馬鹿文豪に、いちいち妙なことを申上げるその前奏曲と思っていただく。
 私の小説の読者に言う、私のこんな軽挙をとがめるな。

     

 彼らは言ふのみにて行はぬなり。また重き荷を(くく)りて人の肩にのせ、己は指にて(これ)を動かさんともせず。(かつ)てその所作(しわざ)は人に見られん為にするなり、即ちその経札(きょうふだ)を幅ひろくし、(ころも)(ふさ)を大きくし、饗宴(ふるまい)の上席、会堂の上座、市場にての敬礼、また人にラビと呼ばるることを好む。されど汝らはラビの(となえ)を受くな。また、導師の称を受くな。
 禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、なんぢらは人の前に天国を閉して、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。盲目(めしい)なる手引よ、汝らは(ぶよ)()し出して駱駝(らくだ)を呑むなり。禍害なるかな、偽善なる学者、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。禍害なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言ふ、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに(くみ)せざりしものを」と。かく汝らは預言者を殺しし者の子たるを自ら(あかし)す。なんぢら己が先祖の桝目を(みた)せ。蛇よ、(ルビ)(すえ)よ、なんぢら(いか)ゲヘナの刑罰を避け得んや。
 L君、わるいけれども、今月は、君にむかってものを言うようになりそうだ。君は、いま、学者なんだってね。ずいぶん勉強したんだろう。大学時代は、あまり「でき」なかったようだが、やはり、「努力」が、ものを言ったんだろうね。ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体(もったい)ぶりに、甚だおどろくと共に、君は外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞えるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。
 しかし、それは私の所謂あまい感じ方で、君たちは、それに気づいていながらも、君たちの自己破産をおそれて、それに目をつぶっているのかも知れない。学者の本質。それは、私にも(かす)かにわかるところもあるような気がする。君たちの、所謂「神」は、「美貌」である。真白な手袋である。
 自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤をもちいて得たような不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄(ほうき)した覚えがある。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライドの中に君たちが平気でいつも住んでいるものとしたら、それは或いは、あのイエスに、「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども云々」と言われても仕方がないのではないかと思われる。
 勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。
 私は、君たちの所謂「勉強」の精華の翻訳を読ませてもらうことによって、実に非常なたのしみを得た。そのことに就いては、いつも私は君たちにアリガトウの気持を抱き続けて来たつもりである。しかし、君たちのこの頃のエッセイほど、みじめな貧しいものはないとも思っている。
 君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。
 イエスから逃げ、詩から逃げ、ただの語学の教師と言われるのも口惜しく、ジャアナリズムの注文に応じて、何やら「ラビ」を装っている様子だが、君たちが、世の中に多少でも信頼を得ている最後の一つのものは何か。知りつつ、それを我が身の「地位」の保全のために、それとなく利用しているのならば、みっともないぞ。
 教養? それにも自信がないだろう。どだい、どれがおいしくて、どれがまずいのか、香気も、臭気も、区別が出来やしないんだから。ひとがいいと言う外国の「文豪」或いは「天才」を、百年もたってから、ただ、いいというだけなんだから。
 優雅? それにも、自信がないだろう。いじらしいくらいに、それに憧れていながら、君たちに出来るのは、赤瓦の屋根の文化生活くらいのものだろう。
 語学には、もちろん自信無し。
 しかし、君たちは何やら「啓蒙家(けいもうか)」みたいな口調で、すまして民衆に説いている。
 洋行。
 案外、そんなところに、君たちと民衆とのだまし合いが成立しているのではないか。まさか、と言うこと(なか)れ。民衆は奇態に、その洋行というものに、おびえるくらい関心を持つ。
 田舎者の上京ということに就いて考えて見よう。二十年前に、上野の何とか博覧会を見て、広小路の牛のすき焼きを食べたと言うだけでも、田舎に帰れば、その身に相当の箔がついているものである。民衆は、これに一目(いちもく)をおくのだから、こたえられまい。(いわ)んや、東京で三年、苦学して法律をおさめた(しかし、それは、通信講義録でも、おさめることが出来るようだが)そのような経歴を持ったとあれば、村の顔役の一人に、いやでも押されるのである。田舎者の出世の早道は、上京にある。しかも、その田舎者は、いい加減なところで必ず帰郷するのである。そこが秘訣だ。その家族と喧嘩をして、追われるように田舎から出て来て、博覧会も、二重橋も、四十七士の墓も見たことがない(或いは見る気も起らぬ)そのような上京者は、私たちの味方だが、いったい日本の所謂「洋行者」の中で、日本から逃げて行く気で船に乗った者は、幾人あったろうか。
 外国へ行くのは、おっくうだが、こらえて三年おれば、大学の教授になり、母をよろこばすことが出来るのだと、周囲には祝福せられ、鹿島立ちとか言うものをなさるのが、君たち洋行者の大半ではなかろうか。それが日本の洋行者の伝統なのであるから、(ろく)な学者の出ないのも無理はないネ。
 私には、不思議でならぬのだが、所謂「洋行」した学者の所謂「洋行の思い出」とでも言ったような文章を拝見するに、いやに、みな、うれしそうなのである。うれしい筈がないと私には確信せられる。日本という国は、昔から外国の民衆の関心の外にあった。(無謀な戦争を起してからは、少し有名になったようだ。それも悪名高し、の方である)私は、かねがね、あの田舎の中学生女学生の団体で東京見物の旅行の姿などに、悲惨を感じている者であるが、もし自分が外国へ行ったら、あの姿そのままのものになるにきまっていると思っている。
 醜い顔の東洋人。けちくさい苦学生赤毛(あかげっと)。オラア、オッタマゲタ。きたない歯。日本には汽車がありますの? 送金延着への絶えざる不安。その憂鬱と屈辱と孤独と、それをどの「洋行者」が書いていたろう。
 所詮は、ただうれしいのである。上野の博覧会である。広小路の牛がおいしかったのである。どんな進歩があったろうか。
 妙なもので、君たち「洋行者」は、君たちの外国生活に於けるみじめさを、隠したがる。いや、隠しているのではなく、それに気づかないのか、もし、そんなだったら話にならぬ。L君、つき合いはお断りだよ。
 ついでだから言うけれども、君たち「洋行者」は、妙にあっさりお世辞を言うネ。酒の席などで、作家は(どんな馬鹿な作家でも)さすがにそうではないけれども、君たちは、ああ、太宰さんですか、お逢いしたいと思っていました、あなたの、××という作品にはまいりました、握手しましょう、などと言い、こっちはそうかと思っていると、その後、新聞の時評やら、または座談会などで、その同一人が、へえ? と思うくらいにミソクソに私の作品をこきおろしていることがたまたまあるようだ。これもまた、君たちが洋行している間に身につけた何かしらではなかろうかと私は思っている。慇懃(いんぎん)と復讐。ひしがれた文化猿。
 みじめな生活をして来たんだ。そうして、いまも、みじめな人間になっているのだ。隠すなよ。
 私事ではあるが、思い出すことがある。自分が、大学へ入ったその春に、兄が上京して来て、(父は死に、兄は若くして、父のかなりの遺産をつぎ、その遺産の使途の一つとして兄は、所謂世界漫遊を思い立った様子なのである。)高田馬場の私の下宿の、近くにあったおそばやで、
「おまえも一緒に行かないか、どうか。自分は一廻りしてくるつもりだが、おまえは途中でフランスあたりにとどまって、フランス文学を研究してもどうでも、それは、おまえの好きなようにするがよい。大学のフランス文科を出てから、フランスへ行くのと、フランスへ行って来てから、大学へ入るのと、どっちが勉強に都合がよかろうか。」
 私は、ほとんど言下に答えた。
「それはやはり、大学で基礎勉強してからのほうがよい。」
「そうだろうか。」
 兄は浮かぬ顔をしていた。兄は私を通訳のかわりとしても、連れて行きたかったらしいのだが、私が断ったので、また考え直した様子で、それっきり外国の話を出さなくなった。
 実は、このとき私は、まっかな嘘をついていたのである。当時、私に好きな女があったのである。そいつと別れたくないばかりに、いい加減の口実を設け、洋行を拒否したのである。この女のことでは、後にひどい苦労をした。しかし、私はいまでは、それらのことを後悔してはいない。洋行するよりは、貧しく愚かな女と苦労することのほうが、人間の事業として、困難でもあり、また、光栄なものであるとさえ思っているからだ。
 とかく、洋行者の土産話ほど、空虚な響きを感じさせるものはない。田舎者の東京土産話というものと、甚だ似ている。名所絵はがき。そこには、市民の生活のにおいが何も無い。
 論文に(たと)えると、あの婦人雑誌の「新婦人の進路」なんていう題の、世にもけがらわしく無内容な、それでいて何やら意味ありそうに乙にすましているあの論文みたいなものだということになりそうだ。
 どんなに自分が無内容でも、卑劣でも、偽善的でも、世の中にはそんな仲間ばかり、ごまんといるのだから、何も苦しんで、ぶちこわしの嫌がらせを言う必要はないだろう、出世をすればいいのだ、教授という肩書を得ればいいのだ、などとひそかにお思いになっていらっしゃるのなら、我また何をか言わんやである。
 しかし、世の学者たちは、この頃、妙に私の作品に就いて、とやかく言うようになった。あいつらは、どうせ馬鹿なんで、いつの世にでも、あんなやつらがいるのだから、気にするなよ、とひとから言われたこともあるが、しかし、私はその不潔な馬鹿ども(悪人と言ってもよい)の言うことを笑って聞き容れるほどの大腹人でもないし、また、批評をみじんも気にしないという脱俗人(そんな脱俗人は、古今東西、ひとりもいなかった事を保証する)ではなし、また、自分の作品がどんな悪評にも絶対にスポイルされないほど(つよ)いものだという自信を持つことも出来ないので、かねて胸くそ悪く思っているひとの言動に対し、いまこそ、自衛の抗議をこころみているわけなのだ。
 或る「外国文学者」が、私の「ヴィヨンの妻」という小説の所謂読後感を某文芸雑誌に発表しているのを読んだことがあるけれども、その頭の悪さに、私はあっけにとられ、これは蓄膿症ではなかろうか、と本気に疑ったほどであった。大学教授といっても何もえらいわけではないけれども、こういうのが大学で文学を教えている犯罪の悪質に慄然(りつぜん)とした。
 そいつが言うのである。(フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではないように聞いていますが)何というひねこびた虚栄であろう。しゃれにも冗談にもなってやしない。嫌味にさえなっていない。かれら大学教授たちは、こういうところで、ひそかに自慰しているのであって、これは、所謂学者連に通有のあわれな自尊心の表情のように思われる。また、その馬鹿先生の曰く、(作者は、この作品の蔭でイヒヒヒヒと笑っている)事ここに到っては、自分もペンを持つ手がふるえるくらい可笑しく馬鹿らしい思いがしてくる。何という空想力の貧弱。そのイヒヒヒヒと笑っているのは、その先生自身だろう。実にその笑い声はその先生によく似合う。
 あの作品の読者が、例えば五千人いたとしても、イヒヒヒヒなどという卑穢な言葉を感じたものはおそらく、その「高尚」な教授一人をのぞいては、まず無いだろうと私には考えられる。光栄なる者よ。汝は五千人中の一人である。少しは、恥かしく思え。
 元来、作者と評者と読者の関係は、例えば正三角形の各頂点の位置にあるものだと思われるが、(△の如き位置に、各々外を向いて坐っていたのでは話にもならないが、各々内側に向い合って腰を掛け、作者は語り、読者は聞き、評者は、或いは作者の話に相槌を打ち、或いは不審を(ただ)し、或いは読者に代って、そのストップを乞う。)この頃、馬鹿教授たちがいやにのこのこ出て来て、例えば、直線上に二点を置き、それが作者と読者だとするならば、教授は、その同一線上の、しかも二点の中間に割り込み、いきなり、イヒヒヒヒである。物語りさいちゅうの作者も、また読者も、実にとまどい困惑するばかりである。
 こんなことまでは、さすがに私も言いたくないが、私は作品を書きながら、死ぬる思いの苦しき努力の覚えはあっても、イヒヒヒヒの記憶だけは、いまだ一度も無い、いや、それは当然すぎるほど当然のことではないか。こう書きながらも、つくづくおまえの馬鹿さが嫌になり、ペンが重く顔がしかめ面になってくる。
 最初に掲げた聖書の言葉にもあったとおり、禍害(わざわい)なるかな、偽善なる学者、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う、「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに(くみ)せざりしものを」と。
 百年二百年或いは三百年前の、謂わばレッテルつきの文豪の仕事ならば、文句もなく三拝九拝し、大いに宣伝これ努めていても、君のすぐ隣にいる作家の作品を、イヒヒヒヒとしか解することが出来ないとは、折角の君の文学の勉強も、疑わしいと言うより他はない。イエスもあきれたってネ。
 もう一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、ルビ(あく)る朝になったら何も残らぬ)と言ったという。このひとの求めているものは、宿酔(ふつかいよい)である。そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。その幸福感を、翌る朝まで持ちこたえなければたまらぬという貪婪(どんらん)、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人であった。(念の為に言っておく。君たちは誰かからこのように言われると、ことに、私のように或る種の札つきみたいに見られている者から、こんなことを言われると、上品を装った苦笑を伴い、太宰先生のお説によれば、私は貪婪、淫乱、剛の者、大馬鹿先生の一人だそうであるが、などと言って軽くいなそうとする卑劣なしみったれ癖があるようだけれども、あれはやめていただく。こっちは、本気で言っているのだ。それこそ、も少し、真面目になれ。私を憎み、考えよ。)宿酔がなければ満足しないという状態は、それこそほんものの「不健康」である。君たちは、どうしてそんなに、恥も外聞もなく、ただ、ものをほしがるのだろう。
 文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
 料理は、おなかに一杯になればいいというものでは無いということは、先月も言ったように思うけれども、さらに、料理の本当のうれしさは、多量少量にあるのでは勿論なく、また、うまい、まずいにあるものでさえ無いのである。料理人の「心づくし」それが、うれしいのである。心のこもった料理、思い当るだろう。おいしいだろう。それだけでいいのである。宿酔を求める気持は、下等である。やめたほうがよい。時に、君のごひいきの作者らしいモームは、あれは少し宿酔させる作家で、ちょうど君の舌には手頃なのだろう。しかし、君のすぐ隣にいる太宰という作家のほうが、少くとも、あのおじいさんよりは粋なのだということくらいは、知っておいてもいいだろうネ。
 何もわからないくせに、あれこれ(もっと)もらしいことを言うので、つい私もこんなことを書きたくなる。翻訳だけしていれあいいんだ。君の翻訳では、ずいぶん私もお蔭を(こうむ)ったつもりなのだ。馬鹿なエッセイばかり書きやがって、この頃、君も、またあのイヒヒヒヒの先生も、あまり語学の勉強をしていないようじゃないか。語学の勉強を怠ったら、君たちは自滅だぜ。
 (ぶん)を知ることだよ。繰り返して言うが、君たちは、語学の教師に過ぎないのだ。所謂「思想家」にさえなれないのだ。啓蒙家? プッ! ヴォルテール、ルソオの受難を知るや。せいぜい親孝行するさ。
 身を以てボオドレエルの憂鬱を、プルウストのアニュイを浴びて、あらわれるのは少くとも君たちの周囲からではあるまい。

(まったくそうだよ。太宰、大いにやれ。あの教授たちは、どだい生意気だよ。まだ手ぬるいくらいだ。おれもかねがね、(しゃく)にさわっていたのだ。)
 背後でそんな声がする。私は、くるりと振向いてその男に答える。
「なにを言ってやがる。おまえよりは、それは、何としたって、あの先生たちは、すぐれているよ。おまえたちは、どだい『できない』じゃないか。『できない』やつは、これは論外。でも、のぞみとあらば、来月あたり、君たちに向って何か言ってあげてもかまわないが、君たちは、キタナクテね。なにせ、まったくの無学なんだから、『文学』でない部分に於いてひとつ撃つ。例えば、剣道の試合のとき、撃つところは、お面、お胴、お小手、ときまっている筈なのに、おまえたちは、試合(プレイ)も生活も一緒くたにして、道具はずれの二の腕や向う(ずね)を、力一杯にひっぱたく。それで勝ったと思っているのだから、キタナクテね。」

  太宰「みずからの魂」であるという『如是我聞』。いかがでしたでしょうか。
 残る三回、四回は、5月以降の記事で紹介の予定です。

 【了】 

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
野平健一『矢来町半世紀』(新潮社、1992年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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