記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月5日

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4月5日の太宰治

  1937年(昭和12年)4月5日。
 太宰治 27歳。

 鰭崎潤(ひれざきじゅん)宛「お話申したきこともございますゆゑ、すぐに遊びにおいで下さい。/お待ち申して居ります。」と記した葉書を投函。

太宰にとっての初代

 太宰は、4月5日付、友人の鰭崎潤(ひれざきじゅん)に宛てて次のようなハガキを投函します。

  東京市杉並区天沼一ノ二三八 碧雲荘より
  東京府下小金井新田四六四 鰭崎潤宛

 冠省
 お話したきこともございますゆえ、すぐにお遊びにおいで下さい。
 お待ち申して居ります。
     太 宰 治
  鰭 崎 潤 兄

 このハガキを受け取った鰭崎は、西荻に住んでいた久富邦夫を誘って、太宰の住む碧雲荘(へきうんそう)を訪れます。

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 この時、太宰は鰭崎に、小山初代(おやまはつよ)の事件を話し、「嫌になったので、別れたい」と、相談を持ちかけたそうです。
 「小山初代の事件」とは、3月5日の記事で紹介した、太宰がパビナール中毒療養のために、武蔵野病院へ入院中、内縁の妻・初代と小舘善四郎との間で起こった過ちのことです。

 この「小山初代の事件」がきっかけで、太宰は初代とともに群馬県水上村谷川温泉に行き、谷川岳山麓で、睡眠剤カルモチンを服用して心中自殺を図りましたが、未遂に終わりました。

 この「水上心中事件」の後、太宰と初代は顔を合わせる事なく、その年の6月に離別することとなります。
 これは、初代と離別する前の話。太宰は、初代のことを「嫌になったので、別れたい」と、親友の鰭崎に話していたようです。

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■太宰と初代。1935年(昭和10年)、船橋にて。

 「素直でやさしく、文壇にはばたこうとする二十代の太宰治の出発によく仕え、なくてはならなかった女性」と評される、初代。太宰の師・井伏鱒二の奥さん・節代も、「かわいい、遠慮深い、豊かに育ったお嬢さんのような感じのひと。じっとしていなさいというと、一日でもじっとしていた」と話し、最後まで初代の前身を芸者だとは知らずにいたといいます。

 東京帝国大学一年生の時に結婚し(入籍はせず)、苦悩の時期を7年間もともにした初代のことを、太宰はどのように思っていたのでしょうか。近藤富枝相聞(そうもん) 文学者たちの愛の軌跡』から、2人のエピソードを引用しながら、見ていきます。

  女学校一年のときなので昭和十年のことにちがいない。ある雨上りの午後、わたしは田端駅を出て、高台につづくだらだら坂にさしかかり、劇的な場面に出会った。目の前で若い男が、並んで歩いていた妻らしい若い女を、力まかせに水たまりにつきとばしたのである。
 女は抵抗せずにされるままとなり、下半身のきものを泥だらけにして倒れた。苦渋の表情をうかべた男の、秀麗とでもいいたい容貌が、私の目をとらえる。それにしても、水たまりに膝をついたまま、いつまでも立ち上らない女の耐え方も、わたしに不思議な興奮を誘った。
 どちらも良家のひとらしいきちんとした和服姿で、女は雨ゴートを着ている。髪は素直にうしろに束ね、その真直な分け目まで、いまもありありと覚えているのだ。
 当時のわたしは、両親に捨てられて孤独であり、その上、感じやすい年ごろでもあったせいか、目の前で争う男女の姿に異常なまでのショックを受けた。ふたりの姿態に、ドロドロした愛欲のにおいを、少女ながらに感じとっていたせいもある。どこの誰なのか。なぜあんなに女は淋しい表情だったのか。思い出すと胸が痛んだ。

 これまで紹介してきた太宰からは、あまり想像できない光景です。
 近藤は、太宰が、急性盲腸炎のために阿佐ヶ谷の篠原病院へ担ぎ込まれ、手術後に腹膜炎を併発。痛みに耐えられず暴れる太宰を鎮めるために打ったパビナール中毒に苦しんでいた頃の太宰だろうと言います。
 近藤は、「ふだんは乱暴をしないが、薬が切れているときは、狂気の余り、初代をつきとばすくらいやってのけたのであろう」と想像しています。

 結婚したばかりの太宰と初代は、

「お()ちゃ」
 と初代は太宰を呼び、夫は、
「ハチヨ」
 と彼女を呼んだ

といいます。

 その後、太宰が左翼運動を始めた頃のこと。

 そのうち初代は、太宰のもとへ出入りするマルクスボーイどもにすすめられ、川崎市マツダランプ本社の読書会に参加するようにさえなった。どの程度彼女に、新しい思想への理解があったかは疑問である。ただ太宰の妻らしくなろうと努力している姿はいじらしい。
 新婚生活といっても、絶えず夫の友人がきていて、議論したり、飲み食いして、初代は落ちついて夫と語るひまもない。生活費もふくれ上る。百二十円の仕送りといえば、大学を出て、五、六年経ったサラリーマンの収入のはずだが、毎月赤字であった。しかし彼女は世話好きで、いやな顔もせず、彼らをもてなした。
 しかも党の命令で、神田同朋町、神田和泉町、淀橋柏木と、わずかの間に転々と住居を変えなければならなかった。

 初代は、常に太宰に寄り添い、献身的な姿勢を崩しませんでした。

 いつまでも無知で無邪気な、芸者気分ではいられなかった。初代は口数が少なくなり、自分を押さえる術を覚えるようになった。快活を装っていたが、いつもオドオドしていた。夫ばかりが傷ついた獣のように呻いているのではなかった。

 そんな夫婦生活の中で、太宰は盲腸炎が原因でパビナール中毒に。療養のために武蔵野病院へ入院させられますが、太宰は、自分を武蔵野病院に入院させた北芳四郎(きたほうしろう)井伏鱒二、初代を憎みました。太宰は、特に初代を憎み、

 「いのちも心も君に一任したひとりの人間を、よくもあざむいて脳病院にぶちこんだな」

と、鉄格子のなかで歯ぎしりしました。武蔵野病院を退院した後も初代への不信は消えませんでした。

 「HUMAN LOST」を書いている十日間、作者は焼野原をさまよっているようであった。初代が、
「ちっとも口をきいてくれない」
 と井伏夫人に訴えるほど、退院以後の太宰の鬱屈は、パビナール中毒以前より、かえって深いように見えた。 

 そのような中で判明した「小山初代の事件」と、それに端を発して起こった「水上心中事件」

 太宰の妻であった七年間に、初代の精神もスタズタであった。いや初代だけではない。周囲はみんな巻きこまれる。太宰という妖光を放つ物体への魅力で近寄ったら最後、誰でも傷つかずにすまない。それが作家の宿命である。初代もK(作者中:小舘善四郎)もその被害をうけたひとりであったのにすぎない。しかし、
「心をいれかえますから許してください」
 とひたすらわびるのは、初代の方であった。
 よし不貞は許せても、初代との生活でぶつかる互いのモラルの違いは、あらゆる事象でくっきりと断層をあらわし、もうつくろう術もないようになっている。<要するに初代の愛の不足だ>と太宰は不満だった。
 問題がこんがらかってくると、太宰はまたもいのちいじりを考える。初代と心中しよう。場所は水上にしよう……と思った。昭和十一年の夏に、太宰はパビナール中毒を自分なりになおそうと考え、谷川温泉の川久保という小料理屋の一間を借りて一ヵ月暮したことがある。上越線水上駅で降り、さらに約三キロ奥まったところにあるわびしい温泉のわびしい家である。ここを思い出したのだ。
 この初代との死の旅のてんまつは、のちに「姥捨」という作品となるが、この内容をすべて真実ととることは危険である。

 【了】

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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
近藤富枝『相聞 文学者たちの愛の軌跡』(中公文庫、1985年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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