記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月22日

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9月22日の太宰治

1935年(昭和10年)9月22日。
 太宰治 26歳。

 九月二十二日付で、三浦正次(みうらまさつぐ)に手紙を送る。

太宰、三浦正次への手紙

 1935年(昭和10年)9月22日、太宰は、三浦正次(みうらまさつぐ)(1909~1986)に手紙を送りました。
 1928年(昭和3年)5月、太宰の弘前高等学校時代、三浦は、太宰、富田弘宗とともに同人誌「細胞文藝」創刊号を出版しています。三浦は、「昭和三年の一月頃だった。彼は私に純文芸雑誌を出そうという相談をもちかけてきた。(中略)結局、細胞という生物学の名前に魅力を感じて『細胞文藝』という名をつけた。(中略)表紙と同じようなポスターを沢山作って、夜の街に貼りに出かけた。一枚ずつじゃ効果が薄いと思って何枚も続けて貼った所が沢山あった」と回想しています。三浦も太宰もマルクシズムに影響を受けており、この雑誌名は左翼文学を想起させます。

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■「細胞文藝」創刊号 表紙のデザインは、太宰の手による。

 今回紹介する太宰が三浦に宛てた手紙は、太宰が東京帝国大学在学中に書かれたもの。この手紙が書かれた8日後の9月30日付で、太宰は、授業料未納を理由に、東京帝国大学を除籍されています。除籍は、入学してから5年5ヶ月後のことでした。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市浅草区南松山町四五 石川公證役場内
   三浦正次

 拝啓。
 お送り下された久保万の句集、ありがとう。久保万の句集よりも、兄の真情をよろこぶ。こんど「文藝春秋」に「ダス・ゲマイネ」なる小説発表いたしましたが、これは「卑俗」の勝利を書いたつもりです。「卑俗」というものは、恥辱だと思わなければ、それで立派(、、)なもので、恥辱だと思ったら最後、収拾できないくらい、きたなくなります。たのみます(、、、、、)と言って頭をさげる、その尊さを書きました。形式は前人未踏の道をとったつもりです。私自身でさえ、他の作家に気の毒なくらいに、(絶対に皮肉(ひにく)ではなしに)ずば抜けていると思っています。客観的に冷静に見て、そうなのです。月評子、あるいは、悪口を言うかも知れませんが、それは、たった一日の現象(、、、、、、、、)です。私の「ダス・ゲマイネ」は一日では消え失せないものがあると、確信しています。改造社酒田氏より手紙が来て、ちかいうちに、私の小説「文藝」にも必ず出るでしょう。
 秋冷、五臓六腑にしみています。私、未だに、配所の月を眺めている気持です。十五銭也を投じて、(或いは本屋の店頭で)「文藝通信」(文藝春秋社発行)の私の文章を読んで下さい。雑誌社というものは、こちらが真剣(、、)に書いているものでも、すぐ、見せ物のようにします。悲しいけれども、仕方ない事実です。
          治 拝。
 ほんとうに、おいそがしいでしょう。立派な生活人に「小説」よまれることぐらいうれしいことがないのです。
 御返事むりに書かなくて、よし。

 太宰が自負を語るダス・ゲマイネは、同年10月1日付「文藝春秋」十月号に発表された小説です。
 タイトルのダス・ゲマイネ(Das Gemeine)」は、ドイツ語で「通俗性、卑俗性」を意味し、太宰は、「『人の性よりしてダス・ゲマイネを駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた』というケエベルの『シルレル論』を読み、この想念のかなしさが私の頭の一隅にこびりついて離れなかった」と言っています。
 また、太宰の故郷、津軽の方言である「ん、だすけまいね(だから、だめなんだ)」とのダブルミーニングであるという説もあります。

 太宰と三浦は、戦後まで交友を続けました。三浦は、その後、宇都宮大学教授、帝京大学法学部教授、足利銀行取締役などを歴任しました。

 【了】

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【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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