【日めくり太宰治】9月23日
9月23日の太宰治。
1945年(昭和20年)9月23日。
太宰治 36歳。
九月二十四日付で、
捗る仕事、断わる仕事
今日は、太宰が1945年(昭和20年)9月24日付で
太宰の死の前後をよく知る別所は、「家族もいるのだから、その気持ちを考えれば、知っていても書けないことだってある」と、晩年に語っていたといいます。
別所は、「生活とは侘しさを堪えることだ」「悲しかったら、うどんかけ一杯と試合しろ」という、師匠・太宰治の言葉に支えられたそうです。
■別所直樹
青森県金木町 津島文治方より
東京都小石川区指ヶ谷町三 朝比奈方
別所直樹宛
拝啓 とにかく御無事の由、安心しました。これからは病気にさえならなければ死ぬ気遣いは無いのだから風邪第一に御用心。出版界も、とみに活気を呈していますから、文春永井氏訪問など大いによろしい。私は元気でいろいろ仕事に追われています。来月中旬から仙台の河北新報にレンサイ小説なども試みるつもり、案外早く逢えるかも知れぬ。 不尽。
「来月中旬から仙台の河北新報にレンサイ小説なども試みるつもり」とは、太宰が初めて新聞小説に挑戦した『パンドラの匣』のことです。この『パンドラの匣』執筆に至る経緯については、9月21日の記事で紹介しました。
佐藤は、東京帝国大学仏文科卒業で、初めて本格的にフランス文学を日本に紹介した
ポール・ヴァレリー、マルセル・プルーストの最初期の紹介者であり、生涯にわたっ
て『ヴァレリー全集』(筑摩書房)の編纂校訂、翻訳・監修を担当。ボードレールやネルヴァルの翻訳研究でも著名です。
太宰は、処女短篇集『晩年』を出版するにあたり、その装丁のモデルとして、佐藤が淀野隆三と共訳した『マルセル・プルウスト全集 失ひし時を索めて第一巻 スワン家の方』を参考としています。
■『スワン家の方』と『晩年』
1949年(昭和24年)から明治大学教授、1956年(昭和31年)から数年間パリに留学し、現地でも講義。1972年(昭和47年)には、紫綬褒章も受章しています。1975年(昭和50年)秋に食道ガンで亡くなりましたが、死の直前にカトリックの洗礼を受け、葬儀は自宅のある鎌倉の教会で行われたそうです。没後、蔵書6000冊が明治大学図書館に収蔵されました。
■
佐藤が師事していた辰野は、太宰が1930年(昭和5年)3月に、東京帝国大学仏文科を受験した際の試験監督でした。
青森県金木町 津島文治方より
山形県飽海郡遊佐町 佐藤小三郎方
佐藤正彰宛
拝復、ただいまは御ていねいの御手紙、恐縮に存じました、御奮闘の御様子、なつかしく、お酒はそちらは如何です、こちらも秋になったら急に乏しくなりました、御言いつけの仕事、ことし一ぱいでしたら、できるのではなかろうかと存じていますが、とにかく手許に本が一冊も無く、問題は、その全集という事になります、どうかそちらでも、心掛けて置いて下さいまし、私のほうでも、そのうちに佐藤先生のほうへ問い合せてみるつもりですが。先生の御住所などもお教え下さい、まあとにかくことし一ぱいというのですから、たすかります、どうかそちらも御元気で、ではまた、 不尽、
「佐藤先生」とは、太宰の師匠・佐藤春夫のこと。「御言いつけの仕事」とは、『佐藤春夫選集』を太宰の選で出版しないか、ということだったようです。太宰は、田舎で佐藤春夫の著書をたくさん持っている人もおらず、そのような状況の中で、10~15作品を選ぶことは至難であることを理由に、この依頼を辞退しています。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・川島幸希『対談資料「太宰治・著書と資料をめぐって」』(山梨県立文学館、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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