【日めくり太宰治】9月24日
9月24日の太宰治。
1936年(昭和11年)9月24日。
太宰治 27歳。
九月中旬、健康快復のため、十一月末から満二か年の予定で、正木不如丘経営の信州富士見高原療養所での、サナトリアム生活を計画。
信州でのサナトリアム生活を計画
1936年(昭和11年)9月中旬、太宰は、パビナール中毒と肺病とで疲弊した身体を休めるため、同年11月末から満2年の予定で、作家で、医師でもある
「サナトリアム(sanatorium)」とは、結核などで、長期的な療養を必要とする人のための療養所です。かつては、結核治療用の施設を指しましたが、その治療率が高まった以降は、精神疾患や認知症、脳卒中の後遺症など、他の病気の療養も含めたものとなっています。日当たりや空気など、環境が良い高原や海浜に建てられることが多いです。宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』(2013年)には、「富士見高原療養所」と同名の療養施設が登場しています。
■富士見高原療養所 日本初の高地結核療養所として設立。文学の素養にも秀でた正木の交友関係から、堀辰雄、竹久夢二、横溝正史らの文人も、ここで療養生活を送った。『月よりの使者』『愛染かつら』『風立ちぬ』など、悲恋を描く映画撮影の舞台としても用いられた。
正木は、長野県上水内郡長野村(現在の、長野市)に、旧上田藩士・正木直太郎の次男として生まれました。父は、長野県師範学校、埼玉県師範学校、香川県師範学校の各校長を歴任しました。小学校時代、派遣教員の島木赤彦から俳句の影響を受け、その後、文筆に親しみました。
埼玉県師範学校附属小学校、旧制獨逸学協会中学、第一高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学医学部を卒業。福島市の福島共立病院の副委員長を経て、1920年(大正9年)、パリのパスツール研究所で学びました。帰国後、慶應義塾大学の医学部助教授として血液学を教えます。1925年(大正14年)に、慶応大学医学博士、1927年(昭和2年)に、東京帝国大学の医学博士の学位を取得します。
正木は、医師としての生活の傍ら、小説や随筆などが人気を博し、大正末年から探偵小説を書きはじめました。1926年(大正15年)12月、富士見高原療養所(現在の、JA長野厚生連富士見高原病院)の初代院長となり、経済的に困窮する病院経営を、筆で支えることもあったといいます。1946年(昭和21年)に医師を引退。1948年(昭和23年)に創作の筆を絶ちます。
名前の「不如丘」はペンネームで、本名は「正木俊二」でした。
■
しかし、同じ頃、東京武蔵野病院内に警視庁麻薬中毒救護所が併設されます。太宰の妻・小山初代から、太宰の動向を内密に聞いていた、警視庁自警会指定の北洋服店店主・
■太宰と初代
同年9月21日付、中畑宛に書かれた初代の手紙には、
「母上様にでもお願いして」
「トランクをもらって来て頂きたい」
「今度病院に行くのでとても不便」
と書かれていたそうです。ここに出て来る「病院」とは、東京武蔵野病院のことを指しており、太宰の意に反し、東京武蔵野病院への入院は、中畑と初代の間では、暗黙の了解事だったということが伺えます。
太宰が東京武蔵野病院に入院したのは、翌10月13日のことでした。
【了】
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【参考文献】
・中野嘉一『太宰治ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「旧富士見高原療養所資料館 - 信州の文化施設」(公益財団法人八十二文化財団)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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