記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月19日

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2月19日の太宰治

  1933年(昭和8年)2月19日。
 太宰治 23歳。

 二月十九日付発行の「東奥日報」の日曜特輯版の別題号附録「サンデー東奥」第二百三号に、「列車」を発表。

太宰治として最初の小説

 『列車』は、はじめて"太宰治"のペンネームで発表された小説です。
 「東奥日報」日曜特集版の別題号付録「サンデー東奥」に、乙種懸賞創作入選作品として掲載。太宰は、賞金として5円(現在の貨幣価値で5万~5万9,000円程度)をもらっています。
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 「サンデー東奥」の懸賞創作には、甲種(50枚前後)と乙種(10枚以内)の2種類があり、乙種は月1回の募集。選にあたっていたのは、竹内俊吉(たけうちしゅんきち)淡谷悠蔵(あわやゆうぞう)の2人で、交互に担当していたようです。太宰が応募した回の選者は淡谷でしたが、竹内が「今度、()やるって」と申し出て選者になったそうです。

 なぜ、竹内は自ら選者を申し出たのでしょうか。
 実は、太宰の入選には、裏話がありました。

 竹内俊吉(たけうちしゅんきち)(1900~1986)は、青森県西津軽郡出精村(現在のつがる市)に生れました。向陽尋常高等小学校高等科を卒業後、上京と帰郷を繰り返しますが、同じ頃に「文章倶楽部」等の文芸誌に短歌や俳句の投稿を行っています。1919年(大正8年)には、五所川原で開催された県短歌大会に出席し、名立たる歌人を抑えて天位を獲得しました。
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 1925年(大正14年)の夏に、東奥日報社に入社。この時期、竹内は雑誌「黎明」に小説を発表しています。1929年(昭和4年)から日曜特集版として新設された「サンデー東奥」の編集に従事。同年の冬には、県内の文人・結社に呼び掛けて、総合文芸誌「座標」の創刊を実現するなど、青森県の文化運動の牽引者として活躍。1932年(昭和7年)には、「東奥日報」紙上に、連載小説『海峡』を発表しています。

 太宰と竹内の関係は、1928年(昭和3年)から。
 太宰は、弘前高等学校2年生の時に創刊した同人誌「細胞文藝」七月号への掲載する原稿を依頼。竹内が創作『紙ナフキンの手紙』を寄稿したのがはじまりのようです。

 そして、1933年(昭和8年)1月中旬頃。太宰は竹内宛に借金の申込みをしています。竹内が断りの手紙を送ると、太宰から折り返し、「ほんとうに困っている。五円だけあれば助かるのだから、頼む」と懇願の手紙が届きます。これに対して、竹内は、「それならいいことがある、ちょうど『東奥日報』で懸賞小説を募集しているから、それに応募するがいい、選者はおれだから、お前のを入選させてやろう」と提案。これに反応して、すぐさま太宰が送ったのが、『列車』だったという訳です。

 ちなみに、『列車』が発表されたのは、太宰がペンネームを決めた翌月のことでした。

●太宰がペンネームを決めたのは、1933年(昭和8年)1月3日。この記事では、ペンネームの由来について読めます!

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「青森県近代文学館」(https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/top/calendar/index.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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