記憶の宮殿

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【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その三)①

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その三)』①
 1936年(昭和11年)、太宰治 27歳。
 1935年(昭和10年)11月上旬後半から中旬前半の頃に脱稿。
 『もの思う葦(その三)』①は、1936年(昭和11年)1月1日発行の「作品」第七巻第一号(第六十九号)に、「葦の自戒」「感想について」「すらだにも」「慈眼」「重大のこと」「敵」の6篇が発表された。
 なお、標題に付している「(その三)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「葦の自戒

 その一。ただ、世の中にのみ眼をむけよ。自然の風景に惑溺(わくでき)して居る我の姿を、自覚したるときには、「われ老憊(ろうばい)したり。」と素直に、敗北の告白をこそせよ。
 そのニ。おなじ言葉を、必ず、二度むしかえして口の端に出さぬこと。
 その三。「未だし。」


「感想について」

 感想なんて! まるい卵もきり(よう)ひとつで立派な四角形になるじゃないか。伏目がちの、おちょぼ口を装うこともできるし、たったいまたかまが原からやって来た原始人そのままの素朴の真似もできるのだ。私にとって、ただ一つ確実なるものは、私自身の肉体である。こうして寝ていて、十指を観る。うごく。右手の人差指。うごく。左手の小指。これも、うごく。これを、しばらく、見つめて居ると、「ああ、私は、ほんとうだ。」と思う。他は皆、なんでも一切、千々(ちぢ)にちぎれて飛ぶ雲の思いで、生きて居るのか死んで居るのか、それさえ分明しないのだ。よくも、よくも! 感想だなぞと。
 遠くからこの状態を眺めている男ひとり在りて曰く、「たいへん簡単である。自尊心。これ一つである。」


「すらだにも」

 金槐集(きんかいしゅう)をお読みのひとは知って居られるだろうが、実朝のうたの中に「すらだにも。」なる一句があった。前後はしかと覚えて居らぬが、あはれ、けだものすらだにも、云々というような歌であった。
 二十代の心情としては、どうしても、「すらだにも。」といわなければならぬところである。ここまで努めて、すらだにも、と口に出したくなって来るではないか。実朝を知ること最も深かった真淵(まぶち)、国語をまもる意味にて、この句を、とらず。いまになりては、いずれも佳きことをしたと思うだけで、格別、真淵をうらまない。


「慈眼」

「慈眼。」というのは亡兄の遺作(へんな仏像)に亡兄みずから附したる名前であって、その青色の二尺くらいの高さの仏像は、いま私の部屋の隅に置いて在るが、亡兄、二十七歳、最後の作品である。二十八歳の夏に死んだのだから。
 そういえば、私、いま、二十七歳。しかも亡兄のかたみの(ねずみ)(しま)の着物を着て寝て居る。二三年まえ、罪なきものを殴り、蹴ちらかして、馬の如く(ちまた)を走り狂い、いまもなお、ときたま、余燼(よじん)ばくはつして、とりかえしのつかぬことをしてしまうのである。どうにでもなれと、一日一ぱいふんぞりかえって寝て居ると、わが身に、慈眼の波ただよい、言葉もなく、にこやかに、所謂(いわゆる)えびす顔になって居る場合が多い。われながら、まるでたわいがないのだ。
 この項、これだけのことで、読者、不要の理屈を附さぬがよい。


「重大のこと」

 知ることは、最上のものにあらず。人智には限りありて、上は――氏より、下は――氏にいたるまで、すべて似たりよったりのものと知るべし。
 重大のことは、ちからであろう。ミケランジェロは、そんなことをせずともよい豊かな身分であったのに、人手は一切借りず何もかもおのれひとりで、大理石塊を、山から町の仕事場までひきずり運び、そうして、からだをめちゃめちゃにしてしまった。
 附言する。ミケランジェロは、人を嫌ったから、あんなに人に嫌われたそうである。


「敵」

 私をしんに否定し得るものは、(私は十一月の海を眺めながら思う。)百姓である。重大まえからの水呑百姓、だけである。
 丹羽文雄川端康成、市村羽佐衛門、そのほか。私には、かぜ一つひいてさえ気にかかる。

 追記。本誌連載中、同郷の友たる今官一(こんかんいち)君の「海鷗の章。」を読み、その快文章、私の胸でさえ躍らされた。このみごとなる文章の行く先々を見つめ居る者、けっして、私のみに非ざることを確信して居る。

 

「亡兄」津島圭治について

 今回のエッセイ「慈眼」に登場した「亡兄」こと、津島圭治について紹介します。

 津島圭治(1903~1930)は、太宰の三兄です。私立東京中学校から東京美術学校(現在の東京藝術大学)塑像科へ進学しましたが、病弱のためあまり学校へは行かず、自宅で塑像制作をしながら、山小屋風の喫茶店を造って雇われママに経営させたり、前衛的な絵を描いたり、詩を創ったりして過ごしていました。その後、同人雑誌「十字街」に夢川利一のペンネームで参加し、表紙絵やカットを担当します。圭治は、東京の各種同人雑誌を度々金木の生家に送ったため、太宰は早くから新傾向の文学に接することができました。

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■津島圭治

 圭治は、1926年(大正15年)6月、川端康成の処女作品集『感情装飾』の出版記念会に参加し、川端から署名本を贈られています。
 同年夏、金木の生家に帰省した圭治は、中学4年生だった太宰と一緒に、同人雑誌青んぼを創刊しました。表紙とカットは圭治が担当し、出資者であった長兄・津島文治や太宰も執筆しましたが、同年10月に圭治が帰郷したため、青んぼは第二号で廃刊となりました。

 太宰が文学に関心を示し、中学時代から作家志望を思い立ったのは圭治の影響が大きくありました。太宰にとって圭治は憧れの人であり、1930年(昭和5年)4月に東京帝国大学の文学部仏蘭西文学科に進学した太宰は、圭治の住居の近くに下宿しました。しかしこの頃、圭治は結核性膀胱カタルに冒されており、床に臥せっていることが多くなっていました。
 同年6月下旬、圭治のまかない人から連絡を受けて駆け付けた太宰は、末期の圭治に二晩付き添って看病し、電報で呼び寄せた文治と共に、その臨終に立ち会いました。享年27歳という若さでした。

 三兄・圭治の早過ぎる死は、太宰の心に大きな穴を空けたであろうと思われます。太宰は、圭治の遺作の「慈眼。」と名付けられた小さな菩薩像を、兄の形見として永く愛蔵しました。

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■圭治作の仏像 2018年(平成30年)12月13日付「東奥日報

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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