記憶の宮殿

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【週刊 太宰治のエッセイ】川端康成へ

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今週のエッセイ

◆『川端康成へ』
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)8月20日から27、28日までに脱稿。
 『川端康成へ』は、1935年(昭和10年)10月1日発行の「文藝通信」第三巻第十号の「芥川賞後日異聞二篇」の一篇として発表された。ほかの一篇は、「芥川賞で擲られそうな男の告白」(矢崎弾)が掲載された。

川端康成

 あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる(うら)みあった。」
 おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一(こんかんいち)伊馬鵜平いまうへいに読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。今年の正月ごろ友人の檀一雄(だんかずお)がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏になら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。
 そのうちに私は小説に行きづまり、()わば野ざらしを心に、旅に出た。それがちいさい騒ぎになった。
 どんなに兄貴からののしられてもいいから、五百円だけ借りたい。そうしてもういちど、やってみよう、私は東京へかえった。友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円のお金をもらえることになった。私はさっそく貸家を捜しまわっているうちに、盲腸炎を起し阿佐ヶ谷の篠原病院に収容された。膿が腹膜にこぼれていて、少し手おくれであった。入院は今年の四月四日のことである。中谷孝雄が見舞いに来た。日本浪漫派にほんろうまんは)へはいろう、そのお土産として「道化の華」を発表しよう。そんな話をした。「道化の華」は檀一雄の手許にあった。檀一雄はなおも川端氏のところへ持って行ったらいいのだがなぞと主張していた。私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉れた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった。私は五月に世田谷区経堂の内科の病院に移された。ここに二ヶ月いた。七月一日、病院の組織がかわり職員も全部交代するとかで、患者もみんな追い出されるような始末であった。私は兄貴と、それから兄貴の知人である北芳四郎(きたよししろう)という洋服屋と二人で相談して決めて呉れた、千葉県船橋の土地へ移された。終日籐椅子(とういす)に寝そべり、朝夕軽い散歩をする。一週間に一度ずつ東京から医者が来る。その生活が二ヶ月ほどつづいて、八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に(いや)な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。
 小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた。ちがう。ちがうと首をふったが、その、冷たく装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた。そうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。
 私はいま、あなたと知恵くらべをしようとしているのではありません。私は、あなたの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅いだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。
 菊池寛氏が、「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑む。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。
 ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。

 

太宰と川端康成

  川端康成(1899~1972)は、大阪府大阪市生まれの小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人です。1968年(昭和43年)には、ノーベル文学賞を受賞しています。代表作に伊豆の踊子』『浅草紅団』『禽獣』『雪国』『眠れる美女』『古都』などがあります。

 太宰と川端との関係は、1935年(昭和10年)1月、第一回目の芥川龍之介賞に太宰の道化の華』『逆行が選考対象になったことからはじまります。太宰の逆行も最終選考まで残りますが、最終的に芥川賞石川達三蒼氓(そうぼう)が受賞しました。

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 受賞者の結果発表後、選考委員の一人だった川端は、選評を芥川龍之介賞選評第一回昭和十年上半期』「文藝春秋」1935年(昭和10年)9月)と題して発表しましたが、その選評の中の次の記述に太宰が反応しました。

 さて、滝井氏の本予選に通った五作のうち、例えば、佐藤春夫氏は、「逆行」よりも「道化の華」によって作者太宰氏を代表したき意見であった。
 この二作は一見別人の作の如く、そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる(うら)みあった。(太字は筆者。「滝井」は選考委員の1人だった滝井孝作のこと。)

 この選評に対して、太宰が「小鳥を飼い、舞踏を見るのが、そんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と反論したのが、今回紹介したエッセイ川端康成へ』です。

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川端康成

 道化の華を友人・檀一雄が「これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏になら、きっとこの作品が判るにちがいない」と言ったことで、審査過程で不必要な力が働いたと考え、「おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう」といい、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ」と川端を直接的に批判しているように見えますが、川端の背後にいる人々を批判しているようにも感じられます。
 この太宰の批判に対して、川端は太宰治氏へ 芥川賞に就いて』(「文藝通信」1935年(昭和10年)11月)で、「全く太宰治氏の妄想である」といい、「世間」や「金銭関係」のために選評で故意に太宰の悪口を言うような必要がないことを記し、「尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」とまとめています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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