4月28日の太宰治。
1943年(昭和18年)4月28日。
太宰治 33歳。
四月二十八日付で、
太宰、友人のために奔走する
まずは、4月28日付で、太宰が
東京府下三鷹町下連雀一一三より
東京市本郷区駒込千駄木町五〇
山岸外史宛
拝復 先夜の御感想、ありがたく拝読いたしました。本当に。
二十九日には、午後四時半までに目黒雅叙園においで下されたく、私は紋服に袴、白足袋のつもりでございますが。なお、二次会は、京橋の某店の筈に御座候えば、御懐中に少しくご準備願わしゅう存候。では、いずれ二十九日に。 敬白。
「目黒雅叙園」とは、「昭和の竜宮城」と謳われ、多くの人々に親しまれた高級料亭。2017年(平成29年)からは、目黒雅叙園から「ホテル雅叙園東京」と施設名称を変更して営業しています。
さて、4月29日、目黒雅叙園で何があるのでしょうか。
実は、ちょうど10日前の4月18日付にも、太宰は山岸に宛ててハガキを送っていました。続けて紹介します。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
東京市本郷区駒込千駄木町五〇
山岸外史宛
拝復 御ぶさたして居ります。御寛恕 下さい。御健闘の事と存じます。塩月君が、二十日に北京を出発し、二十四、五日頃に、東京へ着くという電報がありまして、二十九日午後四時半、目黒雅叙園で結婚式を挙げる事になり、東京には塩月君の身内の人も無いようですから、私が塩月君からたのまれて結納をおさめたり、何かと先方と打合せて居ります。
山岸兄に、その二十九日には、ぜひ友人代表として出席していただきたいと存じています。いずれまたあらためて御通知いたしますが、二十九日は、ひとつ都合して置いて下さい。画会は二十四日に拝見のつもり。お電話いたします。 不一。
29日に、目黒雅叙園で結婚式を挙げるという「塩月君」とは、
太宰と塩月が最初に知り合ったのは、1933年(昭和8年)2月。塩月が関わっていた同人雑誌「
塩月は「政界往来」に勤め、東洋経済から北京に行き、戦後帰国。帰国後、結婚式を挙げることになった「身内の人も無い」塩月のために、太宰は身内代わりとなって、結納を届けたり、式の打ち合わせに行ったりと、仲人役を務めて奔走します。
4月29日、式の当日には、井伏鱒二・節代夫妻、山岸外史などが出席しました。
■和室での結婚式の様子 1935年(昭和10年)代
目黒雅叙園は、創業者・細川力蔵が、東京芝浦にあった自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」がルーツ。創業当時は、日本料理に加えて北京料理をメインとしていたそうで、塩月が北京帰りだったことも、会場を目黒雅叙園に選んだ1つの理由だったのかもしれません。
ちなみに、現存する最古といわれる回転テーブルがあるのが、ここ雅叙園。回転テーブルは、「席に座ったまま料理をとりわけ、次の人に譲ることができないか」という”おもてなしの心”から誕生したものだそうです。
太宰は、のちに、この結婚式を題材にして『佳日』を執筆しました。
また、翌1944年(昭和19年)1月3日、東宝映画から『佳日』映画化の申し入れがあり、太宰は承諾。同年9月に青柳信雄監督のもと、「四つの結婚」のタイトルで上映されました。当時、男優ばかりの戦記映画が多かった時に、久し振りの明るい映画で、評判になったそうです。
■東宝映画「四つの結婚」脚本
1月12日の記事では「太宰と映画」と題し、映画化された太宰作品について紹介しています。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡辺芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「ホテル雅叙園東京」(https://www.hotelgajoen-tokyo.com/)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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