記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月29日

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4月29日の太宰治

  1948年(昭和23年)4月29日。
 太宰治 38歳。

 筑摩書房古田晁(ふるたあきら)の計らいで、大宮市大門町三丁目百三番地の小野沢清澄方の奥の間の八畳と三畳との二間を借り、三畳の間を仕事部屋として「人間失格」の「第三の手記」の「二」を執筆した。

人間失格』執筆のため大宮へ

 1948年(昭和23年)4月29日、太宰は人間失格の「第三の手記 二」以降を執筆するため、埼玉県大宮市へ向かい、滞在します。
 太宰が大宮で執筆するよう取り計らったのは、筑摩書房の社長・古田晁(ふるたあきら)。古田は、作家が小説を執筆するために最適な環境を提供することが得意でした。

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 当時の太宰は斜陽がヒットし、流行作家となっていました。ファンやマスコミなどの来客も多く、三鷹では執筆に集中できないと考えた古田は、太宰に大宮での執筆を提案します。

 さて、人間失格執筆のための大宮行きですが、太宰の愛人・山崎富栄が同行しています。5月9日付の富栄の日記に、この大宮行きについて書かれているので、引用して紹介します。

五月九日

 四月二十九日、古田さんと、神田駅で待ち合わせて、ここ大宮市の一隅に修治さんと生活する。人間失格の第三の手記を執筆なさるためのカンヅメ。藤縄信子さん(十八)は顔立ちのよい、上品なお嬢様で、動作もおちついていて、よいお方。お若いのに随分苦労をなさってこられたからなのでしょう。
 お食事もここの御主人が大変心をこめておつくり下さるので、いつも美味しく頂き、お蔭で太宰さんもめっきり太って来られた。御自分でもそれがうれしくて、やすみながら両腕を交互につくづく眺められている御様子は、そばでみていてもほほえましい位。うれしくて涙が出るほどです。
 どんなに丈夫になりたく思っていられることでしょうか。編集者の訪問責めに逢わないことだけでも気持ちがゆっくりして、いいことなのね。
  (中略)
 人間失格も、熱海で初執筆してから――(二十日間、百五十枚)。三鷹の私のところで、続二回目(十日間、約八十枚)。あと大宮で第三回目(十日間、約六十枚)。今日から、あとがきの由。

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 富栄さんの日記にある人間失格も、熱海で初執筆してから」というのは、熱海の起雲閣別館に滞在した時のこと。この時の様子は、3月8日に「起雲閣で『人間失格』の執筆開始」、3月9日に「太宰が富栄に告げた言葉」というタイトルで紹介していますので、ご覧下さい。

 この頃の太宰の様子について、太宰の妻・津島美知子は、

 自宅近くの内科医に寄って、ザルブロの注射を打ってから、仕事部屋へ出かけるのがきまりで、その外常用するビタミン剤などの注射は(おびただ)しい数に上り、常人の何倍かの量を用いていた

と記しています。
 結核が悪化し、肺に水が溜まって痛む胸を抱え、不眠症でも悩んでいた太宰は、大宮に到着した際、滞在する小野沢宅まで歩くのも辛い状態だったため、大宮駅近くにある務台病院(むたいびょういん)ブドウ糖やビタミン剤などの点滴を打ったそうです。

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■務台病院跡 現在は、美容室「MORIO FROM LONDON 大宮店」になっています。2019年11月、著者撮影。

 務台病院の院長・務台実は、「ブドウ糖とビタミン剤を注射したが、かなり疲れていたらしく、奥の茶の間でしばらく横になっていた。大島の服を着ていたが、口数が少なく寂しい人だった」と話しています。

 太宰の大宮での滞在場所を提供した小野沢清澄は、駅前繁華街で「天清」という天ぷら屋を営業していて、その店の客として親しかった古田に依頼されて、引き受けたそうです。小野沢と古田は、同じ長野県の出身でした。
 古田は小野沢に、「すごい作家なので、栄養のつくものを食べさせてほしい」と頼んだそうです。

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■小野沢宅のある路地

 小野沢清澄によると、「毎朝九時頃に起き、昼ごろから茶ぶ台に向かった。かたわらに辞書を置き、三時間ほどペンを走らせ、夜はゆっくり時間をかけて食事をするという、規則正しい生活を送っていた。」「書損じの原稿用紙で、くずかごは毎日一杯で」「連れの女の人は、いつも静かに編み物をしていた。」といいます。

 小野沢宅に滞在している間、太宰の部屋に食事を運んでいたのが、小野沢の姪にあたる、藤縄信子(当時18歳)でした。
 原稿が進み、「やっとできたよ、信子さん」と嬉しそうな表情を見せた太宰に「先生、おめでとうございます」と言うと、「ありがとう」とニッコリ温かい笑顔を見せていた、と藤縄さんは回想しています。

 藤縄さんは、太宰の食事の様子を、「先生は魚や煮物など淡白な料理をさかなに酒を飲んだ後、おにぎりが好きでつけ物だけで食べてました」と話しています。
 富栄も日記の中で「お食事もここの御主人が大変心をこめておつくり下さるので、いつも美味しく頂き、お蔭で太宰さんもめっきり太って来られた」と書いています。太宰は、体調も回復しながら、大宮での人間失格の執筆に勤しんでいたようです。

●大宮での太宰については、2019年10月19日に、HP「太宰が住んだ大宮」(管理人:玉手洋一さん)主催で開催された「太宰が住んだ大宮探索ツアー2019 秋」の参加ルポを書いています。読み応えのあるルポになっていますので、併せてご覧下さい!

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム―女性篇―』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「古田晁記念館」(http://www.shiojiri.info/~ryouono/t-ono(furuta_akira)/index.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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