記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月14日

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5月14日の太宰治

  1948年(昭和23年)5月14日。
 太宰治 38歳。

 末常卓郎(すえつねたくろう)が来訪し、「朝日新聞」への連載小説の執筆条件などについて相談した。

太宰の「朝日新聞」連載小説

 1948年(昭和23年)5月14日、朝日新聞東京本社の学芸部長・末常卓郎(すえつねたくろう)が、三鷹の太宰の仕事部屋・小料理屋「千草」の二階を訪れ、朝日新聞への連載小説の執筆条件などについて相談しました。

 はじめて太宰と末常の間で、新聞連載について話し合いの場がもたれたのは、1948年(昭和23年)3月初め。午後3時過ぎに「千草」を訪れ、階下で話をしたそうです。これは、太宰が富栄と一緒に、人間失格執筆のため、熱海の起雲閣別館に滞在する前のことでした。起雲閣での人間失格執筆時のエピソードについては、3月8日、3月9日の記事で紹介しています。

 太宰が人間失格を書き上げたのは、4月29日から5月12日まで滞在した埼玉県大宮。太宰は、大宮を去る際、「グッド・バイも、ぜひここで書きたいので、部屋を空けておいて下さい」と言い残し、三鷹へ帰ったといいます。大宮滞在中のエピソードについては、4月29日、5月11日の記事で紹介しています。

 このグッド・バイが、朝日新聞に掲載するために構想を練っていた小説です。大宮滞在中には、すでにタイトルも決まっていたようです。

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■『グッド・バイ』草稿 岩波書店原稿用紙に書かれている。

 そして、5月14日。再び末常は「千草」の太宰を訪れ、グッド・バイの執筆条件などについて相談をしました。
 1日の掲載分は、原稿用紙3枚半で、1枚500円。現金支給で、執筆にかかわる旅費も全て負担。6月20日頃より連載の予定。ちなみに、「1枚500円」の稿料は、現在の貨幣価値に換算すると、約5,000円~6,800円に相当します。
 「新仮名づかい、漢字制限のこと」という条件もついていましたが、太宰は、「自分は原稿は旧仮名づかいで書くが、新聞には直して出してほしい」と語ったそうです。

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玉川上水のほとりで 単行本グッド・バイの口絵に使用された写真。1948年(昭和23年)2月23日、田村茂が撮影。

 太宰が末常に語ったグッド・バイの概要は、次のようなものでした。

彼が描こうとしたものは逆のドン・ファンであった。十人ほどの女にほれられているみめ麗しき男。これが次々と女に別れて行くのである。グッド・バイ、グッド・バイと。そして最後にはあわれグッド・バイしようなど、露思わなかった自分の女房に、逆にグッド・バイされてしまうのだ。

 グッド・バイは、全80回連載の約束で、太宰は自分の一生を決する仕事と考えて力を入れ、作品に自信を持っていたといいます。
 太宰は、末常との打ち合せの翌日、5月15日にグッド・バイの稿を起こしました。

 ここで、太宰が亡くなった翌月、1948年(昭和23年)7月1日付発行の「朝日評論」七月号に、グッド・バイ全文(作者の言葉、連載13回まで)と一緒に掲載された、末常の『グッド・バイのこと』を引用して紹介します。

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■「朝日評論」七月號 グッド・バイ全文が掲載された。

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■「朝日評論」七月號 目次 太宰の死が急だったため、「編集締切後急にこの絶筆を追加収録する」ことになり、急遽16ページ増刷したため、「増ページ分は仙花紙を使用」した旨の断り書きがある。そのため、目次にグッド・バイ収録の記載はない。

グッド・バイのこと

 太宰治よ。君はまったくひどい奴だ。ぼくに「グッド・バイ」の後記などと言う、間の抜けたものを書かせるなんて、まったくひどい男だ。こんなことをさせるなら、一言ぐらいあいさつを、遺して行ってくれたってよさそうなものだった。それさえしなかった君は、不屈千万を通り越している。ぼくが(みじ)めに、こんなことを書いているのを君は何処かで、にやにやして見てやがるんだろう。まったく、いやあな奴だよ君は。
 朝日新聞に連載小説を書くことを太宰治に依頼したのは、この三月のはじめであった。だれか新人を登場させたい、そんな要望から藤澤桓夫のあとに、彼を選んだのである。もちろん彼は、文壇的にはすでに名をなしていた作家であったけれど、大新聞の小説欄からいえば、まだ手を触れられずにいた年増の新人だった。それだけにどれほど我々が彼に期待したかは分からないのである。我々だけではない。これを聞いた作家たちに与えた衝動も大きかった。太宰が書くそうですね、といわれ、いゝ所へ眼をつけたとも()められた。当事者である私たちは、果してどんなものが出来るかと不安ではあったが、内心いささか得意でもあった。依頼するとき、老婆心のきらいはあったけれど、この小説の読者は、(





わず
かの発行部数しか持たぬ文芸雑誌の文学青年ではなく、三百五十万の発行部数を持つ新聞の、二千万に達する読者であることを私は話した。彼は笑った。
「おどかされるなあ」
 といって、不敵に笑ったものであった。
 この小説「グッド・バイ」は、本社の依頼を受けてはじめて構想されたものではなく、当時すでに作家太宰の胎中に形をなしてうごめいており、やがて生れる子への名も用意されていたのである。流行作家として、常に先き先きのものを考えていることは、何の不思議でもない。だが今となって、彼の死と結びつけて考えて見れば、新潮に「如是我聞」の斬り込みをやり、展望に「人間失格」を企て、さらに「グッド・バイ」の構想をからみつかせていた彼の胸中には、我々の予感し得なかった死の行進が、ドドロ・ドドロの足音を響かせて、如実にはじまっていたのだ。
 太宰がこれを書きはじめたのは、五月の十日ごろだったろう。正確には、彼と死を共にした山崎富栄の日記を見れば判るかも知れぬ。彼が描こうとしたものは逆のドン・ファンであった。十人ほどの女にほれられているみめ麗しき男。これが次々と女に別れて行くのである。グッド・バイ、グッド・バイと。そして最後には、あわれグッド・バイしようなど、露思わなかった自分の女房に、逆にグッド・バイされてしまうのだ。「人生足別離」と彼はいう。主人公なる雑誌記者は、もちろん太宰治自身と考えていゝ。彼は自分の容ぼうには相当の自信を持っていたし、多くの女にほれられた。山崎富栄の日記にある太宰の言葉――(どうして)こう女に好かれるのかなあ。ちょうどいゝらしいんだね。ぼくは余り固くないし、場もちは上手だし――を見ても、このことはよく判るのである。彼は現実にもこういう女と別れようとしていた。あの山崎富栄もその一人であった。彼が仕事部屋を借りていた「千草」のお主婦の話によると、死ぬ少し前、太宰の方から別れ話を持ち出し、幾日かいざこざの日が続いた。だけど結局二人は別れ得なかったのだ。別れるといえば、女は自殺してしまうという。ほかの女に太宰をとられるなら、暴力でも彼を奪いかえして見せるとおどす。太宰はもはやどうにも出来なかったのである。小説の上では可能に思われる男女の別離が、彼が身をはめ込んだ現実の中では、たゞ一人の女とさえ、どうしても不可能だったのである。「小説が書けなくなった」という夫人あての遺書の中の言葉、真実彼は小説の中に真理探究の道を見失ってしまったのであろう。

 

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■「千草」の女将・増田静江

 

 太宰治よ。まったく君は、いやあな奴だ。ぼくは君の死因を、知ったかぶりして書いている。なんにも知ってなんかいやしないんだ。あほうだ。ばかの骨頂だ。身のほど知らずだ。ぼくはたゞ君と飲んだだけなんだ。飲んで、悪酔いしないようにと君からメタボリンをもらい、君の肉に突き刺された同じ注射の針を、君の愛人の手でぼくの肉に突き刺してもらっただけの、ほんのそれだけのことなんだ。
グッド・バイ」のはじめの十回は、割合すらすらと筆が進んだようであった。彼はテンポの速い、ちょっとユーモラスなものにし()いと言った。新仮名づかい、漢字制限のことには案外あっさりしていて、ある時代の自分の作品として、新かなづかい、制限漢字で書いてみたいと思っていたといい、自分は原稿は旧仮名づかいで書くが、新聞には直して出してほしいとも語った。彼が筆をとりはじめてから、私は彼の希望で、毎週土曜日に彼を訪ねることにした。やって来て激励してもらわぬと、何だか不安だというのである。四回ほど出来たとき、私は彼の仕事部屋でそれを読んで、「こいつはちょっと下品だな」と不満をもらしたのだが、彼は素直にそれを認め、
「いやこれからだんだん上品にして行きますよ。まあそんなに心配しなくたって、ぼくの小説が面白くないということはないんだから」
 と満々の自信を語るのだった。彼はこれをもって、作家太宰治の一生を決する仕事と考えていたらしい。「千草」のお主婦にもその意を含め、訪問客は断るようにつとめていた。その意気込みはうれしいものだった。それにしても、十回以後はまるで進まなかった。彼はそれを、税金の減額陳情に駆けずりまわっているためと弁解していたが、書き悩んでいたのが事実であろう。毎日血たん(、、)が出ると自分でいう太宰である。いつ倒れられるやら判ったものではない。新聞掲載がはじまる前に少し書き貯めをしておいてもらわぬと社の方で困る。藤澤の小説もあと僅かとなり私も少し焦り気味になった。
 失そうの前日の十二日の土曜日、私は他に所用があったため訪ねることができず、十回分の校正刷りを持たせてやり、月曜日にはさし絵の吉岡堅二氏と共に行くから、原稿が出来ておれば使の者に渡してほしいとの手紙を添えてやった。だが使は手ぶらで帰って来た。そして約束の月曜日、吉岡氏と私は夕刻彼を訪ねたのであるが、もうこのとき太宰治はこの世にいなかったのだ。私に残されたのは、三回分の原稿と、十回分の構成刷であった。
 こゝにして、太宰よ、ぼくは君の魂胆が分ったのだ。グッド・バイだなんて、君は始めからぼくを茶化してやがったんだ。グッド・バイ十三回、十三回の意味はどうなんだ。ひどい奴だよ君は。君はぼくに書かずに、ぼくに書かせやがった

君たちの捜査願だ。始めて会った奥さんと三人の子供さんを前に、ぼくは書いたんだ。ちびた筆でね。おかしいか。おかしければ笑え。こんどはぼくの方で約束した八十回のグッド・バイを言ってやる。グッド・バイ、グッド・バイ、グッド・バイ、とね。中略。ではこれがほんとうに八十回目のグッド・バイだ。
 校正刷には鉛筆で誤植の訂正がしてあった。十二日には、まだ書き続ける気はあったのだ。十三日の十三回。太宰は皮肉である。

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 最後に、山崎富栄が書いている、この日付の日記を紹介します。

五月十四日

 末常氏を、千草におむかえして御相談なさる。九時頃までお飲みになり、お泊りになる。
「泊ってやろうか」
(よろしいの? お家の方……)
「うん」

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 【了】

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【参考文献】
・「朝日評論」七月號(朝日新聞社、1948年)
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰文学研究会、1976年)
三好行雄 編『別冊國文學№.7 太宰治必携』(學燈社、1980年)
・『太宰治全集 13 草稿』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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