記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月30日

f:id:shige97:20191205224501j:image

7月30日の太宰治

  1947年(昭和22年)7月30日。
 太宰治 38歳。

 七月に書かれた、山崎富栄の日記。

富栄、募る太宰への想い

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)7月に書いた、5日分の日記を紹介します。

 まずは、7月7日の日記からです。

七月七日

 六月二十四日があまり嬉しかったので、とうとう傘をなくしてしまう。
 あれから、幾度飲んで、朝を迎えても、ちっとも熟し切れない二人。こういうのは、一体なにかしら。
 あんなにも泣いた夜があったのに、このところ多忙な仕事のせいかしら。
 今野さんと東上。死ぬんだと思うと、あまり大勢の人に迷惑をおかけしない方がいいんだとも考えられて、出足も鈍る。
 加藤さんと、宮城の草原に寝ころんでお話する。生き疲れ、貴女は再婚しなければいけない、なんて。まァ一度も結婚したこともないくせに――。
 今日は月曜日だし、先週も留守中にいらっしゃっていたので、もしかするとお見えになっていらっしゃるかと思い、車を出ようとするトタン、”とみえさん”と呼ばれてふり返る。「飯田女史」と社員の方が見える。公報が入ったので、これから御伺いしようと思っていたとの由。
「おそば召し上がりません? 美味しいし、第一いまどきめずらしいでしょう」と、川端の店へいく。つれづれのお話。この人も再婚しなければいけないと言う。
「今日は温和しいのね、サッちゃん、飲もうか」

 「六月二十四日があまり嬉しかった」とありますが、6月24日の富栄の日記には、次のような会話が書かれています。

”好き――””もう行きな”
”私も女の臭いがしないけど、修治さんも男の臭いがしないわね”
”あと二、三年。一緒に死のうね”
”御願い””もう少し頑張って”
”気に入った””御意に叶った”

 「死ぬんだと思うと、あまり大勢の人に迷惑をおかけしない方がいいんだとも考えられて」というのは、太宰とのこのやり取りを受けてのことでしょうか。

 「加藤さん」とは、三井物産社員の加藤郁子「飯田女史」とは、三井物産本社の飯田富美のことです。飯田は、富栄の茶道華道の師であり、富栄の夫・奥名修一三井物産社員)との縁組みにも尽力しました。
 「公報が入った」とは、奥名戦死の報せのこと。公報が三井物産本社に届き、富栄に知らされたのが、この日でした。奥名は、富栄と結婚した12日後の1944年(昭和19年)12月21日に羽田を出発し、同月26日にマニラ着任。間もなく現地召集となり、1945年(昭和20年)1月17日、バギオ南方20キロの地点で戦死していました。富栄に戦死の公報が届いたのは、その2年半後のことでした。

 「おそば召し上がりません? 美味しいし、第一いまどきめずらしいでしょう」と言って、飯田と入った「川端の店」。現在は、三鷹駅南口デッキ直結の商業施設「三鷹コラル」に店を構える「柏や」かもしれません。 

f:id:shige97:20200726080849j:plain
■1940年(昭和15年)頃の三鷹駅前地図 2020年、パネルは著者撮影。

 「柏や」は、富栄が働いていた「ミタカ美容室」の隣にありました。
 創業は、1930年(昭和5年)。武蔵野の雑木林を走る甲武鉄道(現在の中央線)に、三鷹駅が開設された年、駅前の見渡す限り畑の中で「柏屋そば店」は産声をあげたそうです。

f:id:shige97:20200726080857j:image
■右は、1947年(昭和22年)、中央通りとさくら通りの交差点、正面が三鷹駅。雨の日はぬかるんで大変だった。左は、1963年(昭和38年)の三鷹銀座入口。富士銀行の4軒先に見えるのが、生そば「柏屋」。 2020年、パネルは著者撮影。

f:id:shige97:20200726080853j:image
■1959年(昭和34年)頃の「柏や」外観 中華そばやうどんを出していたこともあったそうです。2020年、パネルは著者撮影。

f:id:shige97:20200726080845j:image
■1959年(昭和34年)頃の「柏や」店内 右が、岩崎愛子(29歳)。2020年、パネルは著者撮影。

 富栄は、「柏や」女将・みつに、お金の工面に来たこともあるそうで、それだけ親しい間柄だったようです。みつは、明治の女性ならではの根性と面倒見の良さを併せ持った方だったそうですが、10歳ほど年上のみつを、富栄も頼りにしていたのでしょう。太宰を連れて、そばを啜りに来たことがあったかもしれません。
 太宰と富栄が、玉川上水で入水した際、三鷹駅前で電話を置いていたのは「柏や」だけで、現場取材した新聞記者が新聞社との連絡のために、店の電話をひっきりなしに使うので困ったそうです。

 次は、7月9日、7月10日、7月14日の日記を続けて引用します。

七月九日

 悲しいひと二人、千草に泊る。
「太宰さんは私のために死ぬんじゃないってこと、分かりますわ」
「君のために生きてるんですよ。本当ですよ」
「私の方が苦しいわ」
「僕の方が苦しいよ。話すと君が泣くと思うから言わないけど。僕の腕を継いでくれる人のいないのは悲しいね」
「惜しい、太宰さんを死なせるのは、勿体ないわ」
「サッちゃんは、女太宰だね、だから好きなんだ」
 随分多い私のニックネーム。
 女太宰。椿やのサッちゃん。スタコラ・サッちゃん。もぐら。東光。

f:id:shige97:20200322120820j:plain

七月十日

「太宰さん以外、私の死ぬ本当の意味は分からないわ」
「愛している証拠だよ」
 と、つねる。
「愛って、痛いものね」
 と笑う。私は一番幸福者。生きていてよかったと思う。

f:id:shige97:20200712234902j:plain

七月十四日

「男の子が病身で可哀想でならないときがあるよ。そんなとき、ああ、いっそ、一緒に死のうかと思うね。誰もそんな僕の苦しみを分からないのだ」
「太宰さんのようなお方が、あのような家に住み、こうした御様子をしていらっしゃるかと思うと――苦しんでいらっしゃるんだと思うわ」
「こんなこと、誰にも言ったことがないんだよ。君と僕とは何か肉親のような気がするね」
「ええ、私もときどき兄のような気のするときがありますわ」
「君を死なせないように、死のうとするときに、小麦粉でも飲ませようかと考えたりしたんだけど。君が先に死ぬと言ったね? 残された僕というものを考えたら、ひどいんだ。ひどいよ。先になんぞ死んだら、死骸を蹴飛ばすね、僕は。――ね、一緒に死のう。こんなにも信じているのに」

   ⁂ ⁂ ⁂

 親より先に死ぬということは、親不孝だとは知っています。でも、男の人の中で、もうこれ以上の人がいないという人に出逢ってしまったんですもの。お父さんには理解できないかも分かりませんけど、太宰さんが生きている間は私も生きます。でもあの人は死ぬんですもの。あの人は、日本を愛しているから、人を愛しているから、芸術を愛しているから、人の子の父の身が、子を残して、しかも自殺しようとする悲しさを察してあげて下さい。私も父母の老後を思うと、切のうございます。
 でも、子もいつかは両親から離れねばならないのですもの。人はいつかは死なねばならないんですものね。
 長い間、ほんとうに、ほんとうに御心配ばかりおかけしました。子縁の少ない父母様が可哀想でなりません。
 お父さん、赦してね。とみえの生き方はこれ以外にはなかったのです。お父さんも、太宰さんが息子であったなら、好きで好きでたまらなくなるようなお方です。
 老後を蔭ながら見守らせて下さいませ。
 私の好きなのは人間津島修治です。

  太宰の長男・正樹は、ダウン症でした。太宰は、「不合格な子」と称して、ことのほか可愛がっていたそうです。15歳のとき、肺炎で亡くなりました。

 日記後半に書かれた遺書は、富栄が両親に宛てて書いた最初の遺書です。この遺書は、最終的には発送されませんでした。太宰と富栄が出逢ったのは、この年の3月27日。出逢って3ヶ月半で、2人の距離は急激に縮まっていったようです。何がここまで2人を死に駆り立てたのでしょうか。

f:id:shige97:20200531215106j:plain
■太宰と妻・美知子 美知子が抱いているのは、長女・園子

 最後に紹介するのは、7月23日の日記です。

七月二十三日

「それで怒っていらっしゃるんでしょう」
 ハウスで、Мになったので、たいぎで寝すごして夕方帰る。三時頃、太宰さんがおみえになられた由。夕方、心待ちにしてみたけれど、いらっしゃらない。八時まで待ってみて散歩に出る。
 町角に人が立っているので、一つ先の横丁を入ったら、お庭先に出てしまった。奥様が黒いお洋服でお仕事。園子ちゃんが真っ白なパンツ一枚の姿でピーチオ。可愛らしい。西山さんの帰り道に、もう一度寄ると、やっぱり町角に人。スリップ姿の奥様がお子様方を寝かせて、あと始末に忙し気な御様子。お客様かな。
 奥様が健気そうなお姿で……「怒っていらっしゃるんでしょう」と仰言るお声がしたら、何やらボソボソと二声ばかり、暗いお隣りの部屋からきこえる。ああ、もう横におなりだったのかと、ホッとする。
 最初は園子ちゃんで救われたけど、二度目は太宰さんが何となくお可哀想になってきて胸が塞がる。
 悪いけど、私も奥様は怖い。初めての日の夜――”こわいんだ、僕はこわいんですよ。救ってくれ”と仰言ったお言葉を思い起こす。不幸な家庭。奥様って、女学校の先生のような感じのするお方だと思った。
 御免なさい。奥様。こんな浅ましいことなどして、私は…。

f:id:shige97:20200726093508j:image
■中央通りと品川用水(現在の、さくら通り)との交差点 1947年(昭和22年頃)。

 【了】

********************
【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】