記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月10日

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9月10日の太宰治

  1946年(昭和21年)9月10日。
 太宰治 37歳。

 九月上旬頃、雑誌「新潮」編集長斎藤十一(さいとうじゅういち)に依頼されて、昭和二十一年春に新潮社に入社し出版部にいた野原一夫(のはらかずお)が、「新潮」への小説連載の依頼状を投函した。

野原一夫(のはらかずお)、太宰に原稿依頼

 野原一夫(のはらかずお)(1922~1999)は、東京府出身の編集者、作家です。
 東京府立第五中学校(現在の、都立小石川高等学校)から浦和高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学逸文学科を卒業。1943年(昭和18年)12月の学徒出陣で、二等水兵として横須賀市の武山海兵団に入隊、その後、海軍の第四期兵科予備学生となりました。1944年(昭和19年)12月、海軍少尉任官、埼玉県大和田通信隊に勤務し、1945年(昭和20年)4月、南九州鹿屋基地に第五航空隊司令部付として赴任。終戦を大分で迎えました。
 復員後の1946年(昭和21年)8月26日、700名中2名の被採用者の1人として、新潮社に入社(もう1人は、野平健一)。出版部に配属されます。高校時代から愛読し、学生時代に4度訪問して親交があった太宰に斜陽の原稿依頼をするなど、太宰が玉川上水で心中するまでの約1年8ヵ月の間、編集者として最も頻繁に、太宰と接していました。
 今日は、野原の回想 太宰治から、野原が復員し、太宰に原稿依頼するまでを引用して紹介します。

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三鷹の若松屋 左から太宰、女将、野原一夫、野平健一。1947年(昭和22年)、撮影:伊馬春部

  復員した翌年の二十一年の夏、非常な競争率だった入社試験にどうしたわけか合格して、私は新潮社に入社した。新入社員は、京大の仏文化を出た野平健一君と私の二人だけだった。入社した日に私たちは社長室によばれ、幹部社員としての自覚を持って励んで欲しい旨を佐藤義夫社長から言われた。私は出版部に、野平君は雑誌『新潮』の編集部に配属された。
 二十年四月の空襲で家は焼かれてしまったので、そのころ私は、国電板橋駅から十五分ほどの安アパートの一室に住んでいた。雨漏りのため畳はふやけ、得体の知れぬ臭いが壁にしみついているひどいアパートだったが、そんなところでも住みこめたのは僥倖(ぎょうこう)だった。知人がやっていた闇屋まがいの仕事の手伝いを私がし、妻はチューインガム鉤状に働いて、やっと食いつないでいた毎日だった。そのころ私は一冊の雑誌も読まなかったような気がする。定職に就けたのは、それも一流出版社といわれているところに就職できたのは嬉しかった。焼跡の東京を、板橋から池袋、池袋から新宿と満員電車に揉まれ、新宿から都電で牛込矢来町へと、私は毎日張り切って通勤した。
 当時の新潮社は、全社員合わせても三十人足らずではなかったか。出版部が佐藤哲夫部長以下五人、『新潮』編集部が斎藤十一編集長以下四人、児童雑誌『銀河』が発刊準備を進めていた。
 仕事は、あまり忙しくなかった。印刷所も製本所もまだ機能を十分に回復していなかったし、なによりも用紙事情が悪化していた。次々と本を出せる状態ではなかった。それと、敗戦による時代の激変にどう対応したらよいのか、そのとまどいと惑乱が新潮社の幹部のなかにあったようにも思う。
 はじめにやらされた仕事は、編集顧問をしていた河盛好蔵氏の企画による『新文学講座』の編集だった。新しい時代の新しい目で文学を見直そうという四巻の講座だった。プランも出したが、主な仕事は原稿取りに走りまわることだった。当時は、電話のある執筆者などほとんどなかった。原稿の督促も在否をたしかめずに足を運ぶしかなく、足の便がまたひどく悪かった。編集とは、肉体労働なのかと思いながら、私はけっこう楽しかった。文学の世界の片隅にやっと戻ってこれたのだという悦びを、私は噛みしめていた。
 日本の現代文学をほとんど知らなかったので、私はその勉強もはじめた。丹羽文雄、舟橋誠一、石川達三、井坂洋次郎、井伏鱒二高見順林芙美子、社の書庫から本を借り出して次々と読んだが、井伏鱒二の初期の短篇と高見順の『故旧忘れ得べき』が印象に残ったくらいだった。その年の三月に『新日本文学』が創刊され、宮本百合子の「播州平野」と徳永直の「妻よねむれ」の連載がはじまったが、興味がなかった。そんななかで、私は二人の作家を発見した。石川淳坂口安吾。名前さえほとんど知らなかったこの二人の作家の、「無尽燈」を「焼跡のイエス」を「堕落論」を「白痴」を「女体」を、新刊の雑誌で読み、私は興奮した。日本の新しい文学はここから始まるのだとさえ思った。石川淳坂口安吾と、そして太宰治、この三人の作家を大事にしていこうと思った。

 

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坂口安吾 銀座のバー・ルパンにて。1946年(昭和21年)11月25日、撮影:林忠彦

 

  その太宰治は、遠く津軽にいた。

 昭和十九年から二十年にかけて、つまり私が軍隊にいたあいだに、太宰さんは「新釈諸国噺」を完成し、「津軽」「惜別」「お伽草紙」の三作を書き下している。私はそのことを入社してまもなく知ったが、しかしその「新釈諸国噺」も「津軽」も「惜別」も「お伽草紙」も、私は手に入れることができなかった。焼跡にすこしずつ出現しはじめた本屋の店頭にも、それらの本はなかった。戦争が終わってまもなく「パンドラの匣」という長篇小説を仙台の新聞に連載したことも知ったが、読むすべもなかった。さいわい、『新潮』の二月号に「」という短篇が発表され、その雑誌が編集部に保存されてあった。私はその雑誌を借り、無人の屋上に出て、立って風に吹かれたまま、そのコントふうの短篇を読んだ。実に、三年ぶりの、太宰さんとの再会だった。そのあと、『展望』の六月号に掲載されていた「冬の花火」という三幕の戯曲を、やはり編集部の保存本で読んだ。まもなく『人間』に戯曲「春の枯葉」が発表された。この二つの戯曲から私は、太宰さんの心の奥底の(うめ)きのようなものを聞いた。

 

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株式会社新潮社 1896年(明治29年)設立。東京都新宿区矢来町71。

 

 その頃、神楽坂の通りをつれだって歩いていたとき、『新潮』編集長の斎藤十一氏から好きな作家は誰かと訊かれた。私は即座に太宰治の名前をあげた。
「若い人に人気があるのかね。」
「それは知りません。」
「どんなところが好きなの。」
 私は返答に窮した。
「なつかしいひとです。」
 斎藤氏は妙な顔をした。私はかいつまんで太宰さんとの事を話した。
「きみが新潮社に入ったことは連絡したの。」
「まだです。」
「すぐしたまえ。」
 斎藤氏は強い口調で言った。
 しかし私には、躊躇(ちゅうちょ)するものが、あった。たった四度しか会っていないのに、旧知のような顔をすることへの気羞(きはずか)しさ。それに三年も経っている。戦中戦後の激変の三年。もう憶えていないのではないか。忘れられていることへの不安。
 やがてある日、私は斎藤氏に呼ばれ、『新潮』に太宰治の長篇を連載したいから依頼の手紙を出して欲しいと言われた。
 もうお忘れになっていらっしゃることと思うが、という書き出しで、私は太宰さんに手紙を書いた。浦高生のとき講演をお願いに行った、大学に入ってから小説を読んでもらったことがある、――書いているうちに、太宰さんの横目が目にうかび、その言葉の端々が記憶によみがえってきた。もっと早くに便りをすればよかった、ああ、早く会いたい、と思った。
 すこしして、太宰さんからの返事がきた。
 残念ながらその葉書は紛失してしまったが、きみのことはよく憶えている、『新潮』への連載は考えてみる、いずれ年内には東京に帰るからその時にゆっくり会おう、というような文面だった。
 その簡単な文面を私は何度も読み返した。小躍りしたい気持だった。斎藤氏にその葉書を見せたとき、私の顔はきっと上気していたにちがいない。
 それからニ、三度手紙の往復があって、十一月十四日には東京に帰り着くだろうという連絡があった。

 【了】

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【参考文献】
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮文庫、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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