記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月9日

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9月9日の太宰治

  1943年(昭和18年)9月9日。
 太宰治 34歳。

 桂英澄(かつらひでずみ)の壮行会が、本郷区千駄木町五十六番地の桂宅であり、石澤深美、堤重久、池田正憲などと出席、一夕をともにした。

桂英澄(かつらひでずみ)、入隊前夜

 桂英澄(かつらひでずみ)(1918~2001)は、東京市本郷区生まれの小説家。京都帝国大学哲学科を卒業し、NHKに入社、戦後放浪生活に入り、8年ほど療養生活をしたのち、「立像」「現代人」など同人誌に創作を発表。1971年(昭和46年)、「早稲田文学」に連載した『寂光』直木賞候補作品となりました。
 桂は、京大在学中の1942年(昭和17年)4月から、太宰に師事。1944年(昭和19年)5月までの約2年間、交流がありました。

 1943年(昭和18年)9月9日、桂の土浦海軍航空隊への入隊前夜。桂の自宅で出征壮行会が行われ、太宰は、石澤深美堤重久池田正憲などと一緒に参加しました。このときの様子を、桂の回想『入隊前夜』を引用して紹介します。

 私が京都大学を繰り上げ卒業したのは昭和十八年九月のことだが、すでに令状が来ていて、九月十日には土浦海軍航空隊に入隊することになっていた。とくべつに繰り上げてもらった卒業論文の口頭試問を済ませ、京都の下宿からあわただしく東京本郷(現文京区)千駄木町の生家へ帰ってきたのは入隊三日前のことである。太宰治の許によく一緒に出入りしたリーダー格の堤重久をはじめ、高校時代からの親友三人が送別会をやろうと言ってくれたのだが、もはや余裕もないので、入隊前夜、私の生家に来てもらうことにした。
 入隊前日の午後、私はこれが最後というつもりで三鷹の太宰宅を訪ねたが、堤たちが集まることを告げると、太宰は言下に「僕もゆこう」と言ってくれた。おっとり刀で駆けつけるような太宰の心意気が私には身に染みて有り難かった。明日からは軍隊と思うと、途中、電車のなかの束の間も貴重な気がして、思い浮かぶままに何かと質問を発したりした。
 たまたま島崎藤村の死が報じられた直後のことで、私は藤村について訊いた。
「うん。だけど、藤村が死んでも、どうということはないよ。僕には、徳田秋声のほうが懐かしいね。秋声は、生死すれすれの境を何度も通り抜けてきてるんだよ」
 太宰はそう言い、藤村は自分の血の宿命とほん気で取り組んではいない、と評した。そのころ私はメリメ全集を読み続けていたので、メリメについても訊いたりした。
「メリメというのは、サロンで女にもてたくてね、面白い話を考えたんだよ」
 太宰が加えたそんなどくとくの批評は、いまも忘れることなく私の記憶に残っている。
 新宿で友人たちと落ち合い、皆を千駄木の私の生家へ案内した。
 応接間でひと憩みしてもらっていると、母が出てきた。よろずにてきぱきした母は、あけっぴろげに太宰に挨拶すると、和服に袴をつけた太宰は、へどもどして口の中で何か言いながら、ひどく照れ臭そうに挨拶していた。

 

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■桂英澄の壮行会 前列右から、桂、太宰、堤重久。後列右から、石澤深美、池田正憲。

 

 座敷に移ってくつろいでもらい酒になった。母は張り切ってありったけの材料を揃え、料理の腕をふるおうとしていた。画家の姉ユキ子(のち、ゆき)も弟も出てきて、私たち若者が先生、先生とこぞって私淑する珍客の思いがけぬ来訪を家中で歓迎する気配であった。
 その前年の夏、太宰は箱根ホテルに滞在して執筆したが、私も弟が箱根町で療養中だったことから、太宰に誘われて十日ほどを太宰の身辺で過ごしており、そのとき弟は何べんも太宰に会っていた。姉桂ユキ子は当時満三十歳を迎えようとしていたが、独自の才能を期待される前衛洋画家としてすでに一家をなしていた。単身でまわっていた満州旅行からちょうど帰ってきたばかりのところで、ハルビンで手に入れたというスコッチウィスキーをとり出して太宰に勧めた。物資のとみに欠乏しはじめていたその頃、貴重なものだったに違いないが、太宰はいっこうに興味を示さず、コップのビールにじゃぶじゃぶそそぎ入れたりしていた。

「軍隊に入るとね、誰も、いたわってなんかくれないんだよ。だけど、りきんだりしちゃいけない。無理をしないで、人並に、平凡に、ということを忘れないようにし給え」
 太宰は繰り返してそう言い、軍隊生活も”軽み”の感覚で過ごせ、という言葉をはなむけとして贈ってくれた。
 そのほかには、どのような話をしたかいまは定かではないが、聖書が話題になったことだけは確かである。当時、私たちには世界が刻々と暗黒の渕に沈んでいくような実感があり、太宰治の許に足しげく通ったりしたのも、暗冥のなかに一条の光を求めるような気持が強かったからだが、何が真実かを判断する規準のような思いで、私たちの誰もが聖書をよく読んでいたのである。
 酒が進むにつれて、いつものことだが太宰の口からは的を射抜くような警句や殺し文句がとび出し、席は賑わっていった。
 だが、太宰治は急に坐り直すようにすると
「だけど、桂はね、家ということを忘れてはいけない。いつも、桂という家のことをね……」
 声を励ますようにして、しきりに家、家というのである。
 太宰らしくない唐突な言葉だと思いながらも、私はかしこまって受けとめた。
 皆で写真を撮ることになり、姉がシャッターを押すと、太宰は「いやあ」と頭に手を当て、ひどく照れていた。その夜、姉のユキ子は黒衣(くろご)に徹して、万事表立たず、裏にまわってサービスに努めてくれた。

 

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■桂英澄の壮行会 右から、桂、石澤深美、太宰、堤重久、池田正憲。

 

 夜も更け、皆は帰ることになったが、私は別れがたい思いもあり、追分町の都電停留所まで送るつもりで皆と一緒に門を出た。戦時下の暗い街の通りをたどる途中、太宰は、
「ああいうお姉さんいいね、好きだよ」と、はずんだ声でしきりに言うのだった。
 都電はなかなか来なかった。さほどの時間とは思えなかったが、戦況の逼迫は日常の随所に陰を落として現われはじめており、早い終電がすでにいってしまったあととも考えられる。私は皆に引き返して泊ってゆくように勧めた。そのとき、太宰治は、
「いや、気を遣うな。桂はとにかく帰れ。電車が無ければ、僕らは駅のベンチで寝てもいいんだ」
 実に断固とした調子でそう言ったのである。
 後に堤から聞いた話だが、太宰はその夜、私と別れたとたん、堤に向かって、
「お前が学者、パリサイ人なんて言うから、お前の一言でいっさいがダメになったじゃないか。せっかくうまくいっていたのに……」
 そう嘆いて、堤に怨み言を言ったそうである。
 私の父が学者であり、聖書のなかの学者、パリサイ人というのは、キリストを処刑に追い込んだ陰険な保守勢力だからだが、堤はむろん、他意なく言ったものに違いなかった。
「ああいうとき、父親というのは、かならず襖の外で聴き耳を立てているものなんだ」
 太宰はさらにそう断定するように言った由である。
 私はその話を聞いて、あのとき太宰が、「”家”ということを忘れてはいけない」などと、急に声を高くして繰り返したわけが頷けたのであるが、思わず吹き出しそうになった。厳格な頑固おやじとして大学でも有名な父が、襖の外で聴き耳を立てる図など、想像もできなかったからだ。
 けれども、それから五十年余を経て、父の全貌を思い返すことのできるいま、父はひょっとすると、あのとき実際に隣室の襖に耳をつけて聴いていたのではなかったか、いや、確かにそうだったに違いない、と、そんなイメージさえ果ては浮かんでくるのである。
 これも後日のことだが、画家の姉桂ユキ子が太宰治について問わずに語りに述懐するのを、私の家内があるとき聞いたという。
「太宰さんのような人なら、結婚してもいいと思った」
 この姉の言葉を聞いたときも、私はあっけにとられたような衝撃を受けた。戦前の男社会のなかで、世間の無理解に傷を受け続けながら、さりげなくやり過ごすかわりに、容易に人に()れることなく独身を維持した姉が、心の奥でどれほど血を流しているか、熟知している私には、最も意外な言葉と受けとれたのだが、しかし、それ故にまた、なるほどと深く頷れもするのである。
 私が入隊してまもなく、銀座で催された姉の個展を太宰治は堤と一緒に見にいったそうである。けれども姉自身は、実際に太宰治に会って言葉をかわしたことなど、私の入隊前夜のあの折りのほかには、後にも先にもいちどもなかったはずだ。太宰治のいのちの波長を、いわば自分にふさわしいもののように姉は姉なりの印象から感じとったに違いない。あれこれといまにして思い迷ったりするのだが、いずれにしろ私の生家の家族それぞれの孤独が、あのとき太宰治によっていちはやくちゃんと見届けられていたような気がするのである。

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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