記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月11日

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7月11日の太宰治

  1936年(昭和11年)7月11日。
 太宰治 27歳。

 午後五時から、山崎剛平浅見淵の尽力で、不忍池畔の上野精養軒において『晩年』の出版記念会が持たれた。

晩年』の出版記念会

 1935年(昭和11年)7月11日、午後5時から、上野精養軒にて、太宰の処女短篇集晩年の出版記念会が開かれました。処女短篇集晩年は、同年6月25日に砂子屋書房から刊行。太宰にとって、強い思い入れがあり、最も情熱を注いだ短篇集です。

 出版記念会の会場となった上野精養軒は、「新橋ー横浜」間で鉄道が開通し、文明開化が本格的に盛り上がりはじめた1872年(明治5年)、日本におけるフランス料理店の草分けとして、東京築地で創業しました。当時は、牛肉を食べたことがある日本人はほとんどおらず、西洋料理は極めて珍しい時代でしたが、精養軒が誕生して以降、フランス料理は、明治の人びとに広く愛されるようになりました。
 精養軒が、現在の不忍池畔に建てられたのは、1876年(明治9年)、上野公園の開設に伴ってでした。

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上野精養軒

 出版記念会は、晩年の出版社である砂子屋書房の書房主・山崎剛平や、共同創立者浅見淵の尽力で開催されました。会費は、2円50銭。
 当日の参加者は、来会順に、山崎剛平、外村繁、保田與重郎亀井勝一郎、芳賀檀、檀一雄、沢西健、北村謙次郎、斧稜、衣巻省三木山捷平、平岡敏男、大鹿卓、中村治平、今官一尾崎一雄、岡村政司、小山祐士、津村信夫、一条正、浅見淵、中谷孝雄、名久井良作、塩月赳、古谷綱武、中村貞次郎、丹羽文雄、山岸外史、那須辰造、永松定、緑川貢、飛島定城、鰭崎潤、小舘善四郎、若林つや、井伏鱒二佐藤春夫など、友人知己37名で、檀一雄が司会を務めました。

 当日の芳名録には、表紙に佐藤春夫の筆で、「千紫万紅」と記され、巻末見返しに太宰の筆で、「遠征一夜/懐家郷/為病床之姉君/七月十一日深夜識」と記され、晩年の口絵写真と同じ写真が「夜」と「郷」との二字の墨跡の一部分に重ねて貼付されています。

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■『晩年』上梓紀念「千紫万紅」(芳名録) 題字は、佐藤春夫

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■『晩年』上梓紀念「千紫万紅」(芳名録)

 当時、病床にあった太宰の四姉・きやうは、同年8月上旬に、太宰のお目付け役・中畑慶吉によって届けられたこの芳名録の写真を見て、ちらと顔を曇らせて、眼を閉じたそうです。

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 さて、ここで、当時の様子について、太宰と並んで「三馬鹿」と呼ばれた檀と山岸の回想から引用して紹介します。

 まず、最初に、檀の『小説 太宰治からの引用です。

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 さて「晩年」の出版記念会場を何処にするかということで随分考えた。太宰は、
芥川龍之介が何処。谷崎潤一郎が何処。佐藤春夫先生が何処だ」
 などと、しきりに数え上げていたが、最後に自分で、
「やっぱり、上野の精養軒にしてくれないか」
 そう云って、私が肯くと、安堵するようだった。
 たしか梅雨あけの頃だったろう。出版記念会は上野精養軒に決定した。当夜、公園の道に、庭たずみが出来ていたことを覚えている。会場に出向いてみると、もう佐藤春夫先生が見えていて、長椅子にゴロリと寝ころんでおられたが、
「もう、三十分も待っていたよ」
 と、先生は大儀そうにそう云われた。
 太宰が来た。白麻の(かすり)に、()の袴をつけていた。袴は、たしか誰かからの借衣だったろう。
 会場への入口の廊下のところで太宰は蒼白になりながら、ふところから白足袋を出して履いていたことを覚えている。益々ひどく、痩せているようだった。太宰の予想よりも出席者の少ないのが、不満のようだったが、それでも随分立派な、出版記念会だった。拍手が起り、太宰がテーブルに手をおいて前かがみにうなだれながら何のことか永々と喋っていたことだけの姿が、昨日の事のように眼に浮ぶ。たしか、浅見さんと、山崎さんに受附をやってもらい、砂子屋から、例の生粋の酒も届けられたようだった。

 続いて、山岸の『人間太宰治からの引用です。

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 太宰の出版記念会は、まもなく、上野の精養軒でおこなわれた。月日はまったく忘れているし、出席者のことも忘れているが、なかなか盛大だった記憶が残っている。太宰がその日、その席に出るまえに廊下のかげで「ぼくが宛てられたらどんなことを喋ったらいいのかネ」と演説の下手なことを怖れてそのコツを訊かれたこともおぼえている。「とにかく正直に喋ったらいいのじゃないか」とぼくがそう答えたこともおぼえている。
 しかし、主賓として太宰が話すことを指名されたとき、ひどく妙な調子があった。初めのうちはよかったのだが、途中から変調子になった。まったく言わでものことまでいいだしたのにはぼくも驚いたものである。自分がひどく貧しい生活者であって、借金に悩んでいる話までじつに真面目に、それでいて訴えるように太宰は話していた。ついには、左手の指さきをそろえて折って、着ている羽織の袖口をおさえ、それをそのまま差しだしたりしながら「この羽織、この着物にいたるまで、頭のさきまで、全部、借りものなのであります。下駄も借りたのであります」などといいはじめたことを思いだすのである。たしかに人々は動揺した。かなり異様で、悲劇的であった。まさか「正直に喋ればいい」といったぼくの言葉どおりに、すべてを正直に喋ったとは思わないが、ぼくまでも太宰の着物は借り着だったのかと思う始末で、これは妙なものであった。たしかに失笑した人たちもいたが、変にしいん(、、、)となった雰囲気をつくったものである。作曲家のシューベルトが、ある夜会に質屋の番号札のついている借着を、それとも知らずに背なかにぶらさげて歩いて、一座の失笑を買ったという話があるが、ぼくは、ふと、そんなことまで思いだしたものである。そういう感覚があった。太宰は懸命だったのにちがいないのである。そして、太宰は、ほんとに不幸な人間(、、、、、)だったのだと思う。

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■『晩年』出版記念会 窓側右より、外村繁、北村謙次郎、古谷綱武、緑川貢、佐藤春夫、太宰、木山捷平、1人おいて今官一、後ろ向き右より2人目、丹羽文雄、1人おいて山岸外史、中谷孝雄、2人おいて、大鹿卓、檀一雄、手前後ろ向き左より2人目、浅見淵山崎剛平井伏鱒二、奥窓側右、小野正文。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「上野精養軒
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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