記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月29日

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12月29日の太宰治

  1936年(昭和11年)12月29日。
 太宰治 27歳。

 井伏鱒二佐藤春夫から「五十円拝借」。

熱海事件(付け馬事件)②

 今日は、「熱海事件」”付け馬事件”とも)について、前・後編の2回に分けて紹介する<後編>です。

 1936年(昭和11年)12月下旬。太宰は、親友・檀一雄を人質として、熱海・村上旅館に残し、檀君菊池寛の処に行ってくる」と言って、単身金策のために帰京しました。
 早速、太宰は永井龍男に会って、菊池寛への借金を申し込みましたが、永井は取り合わなかったそうです。

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永井龍男(1904~1990) 小説家、随筆家、編集者。菊池寛が創設した文藝春秋社に就職。1935年(昭和10年)1月に創設された芥川賞直木賞の常任理事として、3年間両賞の事務を取った。

 途方に暮れた太宰は、師匠・井伏鱒二のもとへ向かいました。太宰が熱海で滞在した先は、井伏の知り合いの小料理屋の紹介でしたが、小料理屋の主人は呑兵衛だったため、井伏は女将さんに手紙を書き、「決して親爺さんに太宰を引合せてくれるな」と頼んでいたそうです。
 この時の様子を、井伏の太宰 治に所収の『十年前頃』から引用します。

 十二月二十八日
 太宰、突如として来訪。きょう熱海から帰ったと云う。いっしょに将棋をさしているところへ、園君(著者注:檀一雄)、熱海の料理屋の主人を連れ、太宰の行方を求めて来る。園君、いきなり太宰を怒鳴りつける。太宰は園を熱海の宿に残し置き、すでに数日前に帰京していたとのことである。小生、(ようや)く事情に気がついた。(ただし)、園君は太宰の仮寓(かぐう)さきに太宰を訪ね行き、しばらく逗留(とうりゅう)しているうちに、置いてけぼりを喰わされたという次第である。太宰、大いに閉口頓首(とんしゅ)の様子、まことに気の毒とも何とも云いがたし。
 熱海の料理屋(大吉)の主人は、太宰への立替金百円内外を請求に来たのである。太宰は勿論のこと、小生にも持ちあわせなし。(すなわ)ち、小生の正月用の着物を質に入れ十円を得、初代さんの正月用の着物を質入、二十円を得、三十五円也を熱海の料亭主人に渡す。料亭主人、これでは足りないと云う。前もって(おかみさんに)、酒をすすめてくれるなと頼んだ甲斐もない。太宰をそそのかして遊びに連れ出したものに違いない。この料理屋の主人はおかみさんには頭があがらないが、外に出て酔うと全く始末が悪い。太宰のことは、おかみさんに紹介したのにかかわらず、亭主、嗅ぎつけたものに相違ない。勝手にしろと云いたいが、うっちゃっておけるものでもない。
 そこで園君と共に佐藤春夫氏を訪ね、園君は彼の宿料三十円を佐藤氏より拝借。小生は明日拝借できる約束を得る。深更三時ころ辞去。
 十二月二十九日
 佐藤氏より五十円拝借。
 (追記ーこの金は、三好達治が大阪の母堂から結婚のお祝に貰った金の一部だという。年末のこととて余儀なく佐藤さんが三好に事情を云って又貸しされたものである。)

 

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佐藤春夫

 

 十二月三十日
 園君と共に熱海に行き、太宰の宿の払いをすませ、料理屋の借りを払う。金すこし不足なり。主人、大いに不平を鳴らす。我慢しろとなだめるに、困った困ったと愚痴を云う。そこで小生すこし気を荒くして、しからばお前さんの細君をここに出せ、云ってきかせることがあると云う。おやじ(たちま)ち閉口して、それは私んちで家庭争議を起すだけのものであるから、勘弁して下さいと云う。
 この主人、太宰をそそのかして芸者を数多呼び集め、太宰の持ち金を消費させ、その上の太宰の借金とはこの遊興費にほかならぬ。それを追求すると、その通りだと云う。
 この主人、かつて女房を浅草の小屋ものに奪われたとき泣きついて来て、小生の知人と小生の口ききで元の枝におさまった。銀座裏に店を持つときにも小生の知人の世話で首尾をつけた。かれこれ云えぬ義理もある筈だ。「我慢しろ、我慢しろ」となだめるに、おやじ遂に折れて出た。太宰の出世払いということにして帰京する。

 

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井伏鱒二

 これが、井伏から見た「熱海事件」の顛末です。 

 一方、檀も小説 太宰治「熱海事件」の顛末を記しています。太宰の上京直後からの引用です。

 一日。二日。太宰は帰って来なかった。私は宿の下駄を借り、埋立の突堤の所を毎日歩いていた。そこまでが許された、行動半径のようである。宿屋のおやじの視線がはずれないのである。
 暗鬱な海だった。波がよろめき立っていた。廻し車の釣り糸を垂れた投釣の釣人が、大勢風の早い冬の海に釣っていた。
 大きいチヌが一匹釣れていた事を覚えている。たぐり上げたテグスの先に糸を張った黒鯛が、左右に泳ぎ狂いながら、少しずつ、少しずつ、遂に、釣人の手の中にひきしぼられていった事を覚えている。それが、手タブにすくい取られ、網の目の中にバタバタとくねっていた事も覚えている。
 三日目に、宿の部屋へ双葉が来た。太宰の思い遣りだろう。私は布団の中に引き入れると、妙にバタつく女を抱きしめていた。
 あくる日も来た。その翌日も来た。
 私はようやく、太宰が帰らないな、と気がついた。いや、帰れないのだと気がついた。すると、どうして現在の窮況を打開し得るのかと狂おしかった。もう突堤への散歩もできなくなっていた。宿の主人が顔を出すのである。それでも食事は二度だけは確実に運ばれた。双葉は時にやってきて、あきらめたように、床の中にもぐり込んだ。
 「先生、まあだ?」
 「ああ」と、私は女の肌を探り取った。脂肪層の柔らかく厚い女だった。五尺にも足りないか? あちらの家ではそうは思わなかったが、宿に来てみると矮小な見すぼらしい女だった。全体の筋肉が、平らな朝鮮飴のふうである。その朝鮮飴の全体に、情味が満遍なくふわりと、散らばっているようだった。
 私はもどかしかった。私は今、集中された愛と、献身と爆発が、欲しかった。打てば響くような心が欲しいと、もどかしいのである。そのもどかしい滑らかな皮膚を、なでさするだけだった。

 

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檀一雄

 

 幾日目だったろう。十日のように長かった気もするし、五日目位だったような気持もする。目玉の松がやって来た。
 「檀さん。このままじゃどうにもなりませんよ」
 そうだ、どうにもならない、と情なかった。
 「行ってみましょうや、太宰さんの処に」
 かりに太宰を見付け出したところで、どうなろう。益々、みじめになるばかりだとは思ったが、しかし、他に解決の法がない。ゆけば何かの窮策が生れるかも知れない、と私も思った。
 「ここは、いいの?」
 階下の宿のあるじの方を、私はちょっと指差した。
 「ああ、ようがすとも。見つけにゆくんだから、仕方がないでしょう」
 「じゃ、ゆこう」
 「すぐにゆきますか?」
 「すぐにゆく」
 「何処を見つけたらいいでしょうなあ」
 「井伏さんのとこさ」と、私は言下に答えた。あそこに太宰も一度は顔を出しているに違いない。いないにせよ、何かの手掛かりはあるだろう。
 みじめな旅だった。罪は太宰だけではない。私が悪いのだ。木乃伊(ミイラ)取りが、木乃伊になったどころではない。初代さんにも誰にも会わせる、顔がないではないかと、気が滅入った。
 思えば熱い海だった。そこに焼きつくされて、醜体の残骸を運んでゆく。おまけに、馬をまで連れて――。
 荻窪の駅を降り、清水町に出掛けていった。
 「御免下さい。太宰を、御存知ありませんでしょうか?」
 「ああ、見えてますよ」
 「います?」と自分でも厭な声だった。
 「檀さん、ですよ」と奥さんが座敷の方に声をかけられた。
 「ああ、檀君
 太宰の狼狽の声が聞えてくる。私は障子を開け放った。
 「何だ、君。あんまりじゃないか」と、私は激怒した。いや、激怒しなければならない、その場の打算が強くきた。
 太宰は井伏さんと、将棋をさしていた。そのまま、私の怒声に、パラパラと駒を盤上に崩してしまうのである。
 指先は細かに震えていた。血の気が失せてしまった顔だった。オロオロと声も何も出ないようである。
 「どうしたんだい? 檀君、怒鳴りこんで来たりして」
 と、井伏さんは怪訝な顔で私を見た。目玉の松が、得たりというふうに、今までの事情を早口に喋っている。井伏さんは、ようやく納得されたようであった。目玉の松をなだめたり、すかしたりした末に、
 「とにかく、明日は出来るだけの事をして、檀君と熱海にゆくから、ひとまず引き揚げてくれないか」
 目玉の松は、しぶしぶと引き揚げた。たしか総額で、三百円足らずの借金だったように覚えている。宿の払い、居酒屋の払い、それに遊女屋の立替金のようだった。目玉の松は井伏さんの手の中に、何十枚もの酒や、女の勘定書を預けていった。私は冷汗ものだった。
 やや、平静を取り戻した後だったろう。ちょうど井伏さんが立たれた留守を見て、太宰は私に低く言った。
 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」
 この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響を持っていたことを今でもはっきりと覚えている。

 

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 その日であったか、その翌日であったか忘れたが、私は井伏さんに伴われて、関口台町の佐藤春夫先生宅をお訪ねした。御夫妻とも在宅のようだった。事が事だけにあの時の私は、冷汗三斗、穴あらば這入りたい、すべての言葉よりも深刻だった。
 井伏さんの説明を聞きながら、佐藤先生は、不快な事だが、見逃しも出来ぬといったふうに、いちいち(うなず)かれたのである。
 井伏さんは時折、例の、女の勘定書きを膝の上にパラパラとめくりながら、先生と、私の顔を交互に見られた。
 もう生涯、あのような恥ずかしい目に会わずに済めば幸わせである。私は「丹下氏邸」を読み返すたびに、あの日の井伏さんの、膝の上に積まれていた、女の、(おびただ)しい勘定書を思い起すならわしだ。
 佐藤先生からは、私の宿代として三十円、太宰の分としてたしか六十円、残余は井伏さんが御自分の物や初代さんの衣類などを質入して、まかなって下さった。その足で、すぐに井伏さんと二人、熱海に急いでいった。
 寒い日だった。滅法情なかった。私はあの日に井伏さんが、履いておられた日和下駄を、今でもはっきりと覚えている。(まさ)の正しく通った、足の幅ときっちりの細い日和下駄だった。それを気ぜわしくカチカチと踏みながら、熱海のコンクリ道を海沿いに歩いてゆかれた。
 宿の払いを済ませ、目玉の松のところは、やや足りなかったが、井伏さんの折衝で、ようやく納得したようだった。
 ()として、井伏さんに伴われて這入った、大きな共同浴場の、丸いセメントの浴槽の事を覚えている。温泉の中に、ポッカリ浮んで、目をパチパチさせながら、しきりに首の廻りに、手拭を使っておられた、井伏さんの顔を思い出す。

 

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井伏鱒二


 「なーに、あの男は僕に大きな口をきけた義理じゃないんだよ」
 井伏さんはそう云って広い浴槽の中を浮び歩きながら、また首のところに。チャプチャプとタオルを、もってゆかれるようだった。
 私は後日、「走れメロス」という太宰の(すぐ)れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。あれを読むたびに、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。
 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」
 と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる。

  これが、檀から見た「熱海事件」の顛末です。この「熱海事件」は、別名「付け馬事件」とも呼ばれます。「付け馬」とは、遊興費が不足したり、払えなかったりした者について行き、その者の家まで代金を取りに行く人のことを言います。

 檀は回想の最後で「『走れメロス』という太宰の(すぐ)れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と、「熱海事件」が太宰の短篇走れメロスにインスピレーションを与えたのではないかと言及しています。
 走れメロスの末尾には、「古伝説とシルレルの詩から」と記されており、古代ギリシャの伝承とドイツの詩人であるフリードリヒ・フォン・シラーシルレル)の『人質』を基に創作されています。
 しかし、檀の言う通り、走れメロス執筆中の太宰の脳裏には、「熱海事件」の思い出が浮かんでいたかもしれません。走れメロスは、この事件の4年後、1940年(昭和15年)5月に「新潮」五月号に発表されました。

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■デイモンとピシアス 走れメロスの基になった伝承。西洋では「固い友情で結ばれた親友」を意味する慣用句として使われ、「メロスとセリヌンティウス」よりも、「デイモンとピシアス」という呼称の方が有名。

 【了】

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【参考文献】
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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