記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月29日

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10月29日の太宰治

  1940年(昭和15年)10月29日。
 太宰治 31歳。

 十月三十日付発行の「文筆」五(ママ)年記念随筆特集号に「浪漫万歳」(のち「砂子屋(すなごや)」と改題)を発表。

砂子屋(すなごや)

 今日は、太宰のエッセイ砂子屋(すなごや)を紹介します。
 砂子屋(すなごや)は、1940年(昭和15年)10月30日発行の「文筆」五(ママ)年記念随筆特集号に『浪漫万歳』の題で発表され、のちに砂子屋(すなごや)と改題されました。初出誌の本文末尾には、「(晩年、女生徒の著者)」と書いてありました。

砂子屋(すなごや)

 書房を展開せられて、もう五周年記念日を迎えられる由、おめでとう存じます。書房主山崎剛平(やまざきごうへい)氏は、私でさえ、ひそかに舌を巻いて驚いたほどの、ずぶの夢想家でありました。夢想家が、この世で成功したというためしは、古今東西にわたって、未だ一つも無かったと言ってよい。けれども山崎氏は、不思議にも、いま、成功して居られる様子であります。山崎氏の父祖の遺徳の、おかげと思うより他は無い。ちなみに、書房の名の砂子屋は、彼の出生の地、播州「砂子村」に由来しているようであります。出生の地を、その家の屋号にするというのは、之は、なかなかの野心の証拠なのであります。郷土の名を、わが空拳にて日本全国にひろめ、その郷土の栄誉を一身に荷わんとする意気込みが無ければ、とても自身の生れた所の名を、家の屋号になど、出来るものではありません。むかし、紀の國屋文左衛門という人も、やはり、そのような意気込みを以て、紀の國の名を日本全国に歌わせたが、あの人は、終りがあまり、よくなかったようであります。さいわい、山崎氏には、浅見、尾崎両氏の真の良友あり、両氏共に高潔俊爽の得難き大人物にて帷幕(いばく)の陰より機に臨み変に応じて順義妥当の優策を授け、また傍に、宮内、佐伯両氏の新英惇徳(とんとく)の二人物あり、やさしく彼に助勢してくれている様でありますから、まずこのぶんでは、以後も不安なかるべしと思います。山崎氏も真の困難は、今日以後に在るという事に就いては、既に充分の覚悟をお持ちだろうと思います。変らず、身辺の良友の言を聴き、君の遠大の浪漫を、見事に満開なさるよう御努力下さい。

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砂子屋(すなごや)書房主・山崎剛平(やまざきごうへい)(1901~1996) 兵庫県上郡町の酒造家に生まれる。歌人、出版者、実業家。早稲田大学文学部国文科卒。

 砂子屋(すなごや)書房は、太宰の処女短篇集晩年と第5短篇集女生徒を出版した出版社で、エッセイ砂子屋(すなごや)も、砂子屋書房が刊行する雑誌「文筆」に掲載されました。
 砂子屋書房は、1935年(昭和10年)10月10日に、山崎剛平(やまざきごうへい)が、浅見淵(あさみふかし)古志太郎(こしたろう)とともに創立した出版社です。書房の由来は、山崎の父・與三吉が経営していた「砂子屋酒店」。「砂子屋」は「まなごや」と読むのが正式名だが、人々が「すなごや」と読むため、それに任せたそうです。
 書房は、1943年(昭和18年)に廃業され、山崎はその後、実家の山崎酒造の社長を務めました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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