記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月20日

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7月20日の太宰治

  1939年(昭和14年)7月20日。
 太宰治 30歳。

 七月二十日付で短篇集『女生徒』を砂子屋書房から刊行した。

太宰、お見合いをセッティング

 1939年(昭和14年)7月20日付で、太宰の第5短篇集女生徒(「満願」「女生徒」「I can speak」「富嶽百景」「懶惰の歌留多」「姥捨」「黄金風景」収載)が、砂子屋書房から刊行されます。

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 女生徒に収録されている短篇女生徒は、太宰作品の愛読者・有明(ありあけしづ)(1919~1981)が太宰に提供した、1938年(昭和13年)4月30日~8月8日までの日記を題材に書かれました。
 この頃、有明淑は、1936年(昭和11年)3月に成女高等女学校を卒業し、イトウ洋裁研究所という洋裁学校に通っていました。
 日記の提供から執筆までの経緯については、1月26日の記事で、「『女生徒』誕生の舞台裏」と題して紹介しました。

 そして、今日紹介するのは、その女生徒の題材になった日記を提供した有明(ありあけしづ)の母親に宛てて、1940年(昭和15年)1月10日付で太宰が送った手紙です。長い手紙ですが、全文引用してみます。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市板橋区練馬春日町二ノ二〇二八
   有明様御母堂宛

 拝啓。
 酷寒の候となりました。御一家様お変りございませんでしょうか。先日は、突然お寄り申し、失礼いたしました。御病気も、もう御全快のことと拝察いたします。いつも御一家の御幸福を祈って居ります。
 一友人から結婚のことをたのまれて居るのでございますが、甚だ突然で、失礼の段は幾重にもおわび申し上げます、書生流に、ざっくばらんに申し上げますゆえ、その友人は、塩月赳(しおつきたけし)といって、東京帝大の美学科を出て、いまは日本橋東洋経済社の編集部につとめて居ります。私と同年の三十二歳でありますが、もちろん初婚ですし、また私などともちがって、じみな真面目な性格ですから、たぶん童貞なのではないかと存じます。その人が、私のようなものを、以前から信頼して呉れていて、このごろしきりと、お嫁を世話してくれぬかと真剣にたのみますので、私も、「誰か有力な先輩や、また社の上役にでも頼めばいいではないか」と申しましても、「いや、ぜひ君にお願いする。君が、いいという女のひとなら大丈夫だ」と真面目に言うので、私も、慎重に考えていました。人の一生を左右することなのですから、軽々とは引き受けられません。ふと、淑子様のことを思い出し、ちっとも御交際せずとも、御令嬢の日記帳やお手紙にて、まじめな御性格、ならびに立派な御家風など、よく私も承知して居りますゆえ、その友人に(私は、他のひとには、ほとんど誰にも、御令嬢のことなど話したことは無いのですが、)友人にだけ、「こういうおかたが在るけれど、どうかしら」とだいたい、私の存じ上げている範囲で御家庭のことを申しましたら、友人はたいへんよころんで、どうかたのむ、という返事でありました。とにかく私から、それでは御先方へお伺いして見ましょうと私も友人と約束いたし、ただいま、御母上様に、このように御相談申し上げる次第でございます。もちろん、いますぐ御返事をいただこう等と、そんな失礼な非常識なことは考えて居りませぬ。御母上様とも段々話合った上、もし縁あらば、という私としては望みなのであります。私、自身御宅へ参上しようかとも存じましたが、はじめから、そんな話を申しては、御一家をいたずらに御迷惑おさせ申すだけのことでございましょうし、はじめは、失礼ながら書状を以て申し上げる次第でございます。
 もし御母上様に於いて、なおよく事情をお聞き取りになりたい場合は、どうか私を御遠慮なくお呼び下さいまし。塩月君は、先年お母さんになくなられて、お父さんおひとりきりであります。それに、弟さんがひとり居られて、家族は、父、兄、弟の三人きりで、弟さんは、一昨年京都の帝大の文科を出て、今は満州の中学校の先生をしています。お父さんは、台湾高等学校の絵画の先生を永いことやって居られ、また、台湾美術界の重鎮にて、東京でも度々個展をひらき、一流の芸術家のようであります。台湾では、ずいぶん有名な人のようであります。もちろん、台湾の人では、ありません。本籍は宮崎県とか聞いて居ります。台湾高等学校の生徒間でも、ずいぶん人気のあるおかたのようであります。お父さんの名は塩月善吉といいます。
 塩月君は、全くの自由で、将来も、ずっと東京で永住する筈であります。お父さんも塩月君を信頼してなんでも、まかせています。お父さんからたびたび「早く東京でいいおかたを見つけて結婚せよ、孫の顔を見せて下さい」と手紙がまいります。塩月君は内気で、自分ひとりで見つけに歩くなどできないたちですから、いままで結婚できずにいました。教育者の家庭に育った人ですから、古い固い道徳観を持っていて、浮いた恋愛結婚など、とても、できないようであります。私も、恋愛結婚などよりは、しっかりした日本古来の法に依る結婚が至福と信じますので、その点では、塩月君の心掛けに感心して居ります。
 塩月君は、私と芸術の友でもあります。塩月君は、私とちがって篤実な、用心深い性質なので、学校もちゃんと出て、就職して、ゆっくり文学を、たのしみながら、やって行くつもりのようであります。もうすでに、「薔薇の世紀」という評論集を出版しています。また、いまは、つとめの余暇に、ゆっくり長編小説を書いていますが、これが完成したら、すぐ出版するように、すでに出版書房も内定して居ります。出版したら、相当問題になる小説だと信じます。私も塩月君には、いつもつとめをよさずに、ゆっくり書いてゆくことをすすめています。それが、最後の勝利の道だと信じていますので。
 英語とフランス語がかなりよくできる様子で、いまの東洋経済社でも、もっぱら翻訳のほうの仕事をやっているようであります。いろいろ美点もあるのでございますが、どうも、私も、親友をほめるのは、甚だてれくさく、でも、事実はそのまま申さなければなりませんし、ありのままを申し上げました。
 ただいまは、荻窪の慶山房アパートという静かな、まかないつきのアパートに住んで居ります。からだも、どこと言って、病気のところは無いようです。五尺八寸くらいでしょうか。性質は素直な、やさしい男です。私のところの愚妻も、「塩月さんは、きっといい旦那さんになります、」と申して居ります。ただ、欠点と申せば、すでに三十二歳ですから、私同様前額部が、禿げ上がってまいりました。でも、禿げ上がっている人に、悪人は無いと申します。頭脳を使うので、どうしても皆、髪が薄くなります。それ以外は、なんの欠点もないようです。顔も、(男の顔など、どうでもいいことですが)色が浅黒いけれど、端正な渋い男まえです。
 だいたい以上で、重要な点は、語りつくしたように存じます。俸給は、いくらもらっているか存じませんが、でも、夫婦二人のくらしには困らぬ自信がある様子であります。ただいま会社が休みなので、伊豆、大島を旅行中の様であります。旅行が好きなようです。
 有明様に於いても、いろいろ御親戚様に御相談なさらなければ、いけませぬでしょうし、どうぞ御考慮の上、私まで御返事いただけたら、幸甚でございます。
 淑子様を幸福にしてあげたいと思う心はお母上様も、またさし出たようですが私とても、変りはないと存じますし、私も充分に考慮の上のことで、決して、いい加減の、無責任の行動でないのでございますから、どうか、その点は私のようなものでも御信頼いただけたらありがたく存じます。
 何ぶん御考慮の上、御返事下さいまし。どうか、御遠慮なく、私になんでもお言いつけ下さいまし。塩月君は、いまのところ私に万事一任という形で、有明様御一家様をも、信頼し切って居るようであります。
 私も、このようなことは、本当に、ちっとも馴れて居りませぬし、ただざっくばらん、書生流の純粋の誠意をのみ、お伝えできたら、よろこびと存じて居ります。末筆ながら、淑子様にもよろしく。悪天候ゆえ、お身お大切に。
            太 宰 治
  有明様 御母堂様

 太宰は、友人・塩月赳(しおつきたけし)(1909~1948)から結婚の世話役を依頼され、前年1939年(昭和14年)12月末に一度、有明宅を訪問していました。この時は、有明淑の母親は「御病気」だったようで、年が明けた1月10日に書いたのが、先ほど引用した手紙です。
 同年3月、太宰夫妻が付添い同席して、塩月と有明淑のお見合いが行われましたが、この時の様子を、太宰の妻・津島美知子『回想の太宰治から引用します。

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 三月某日、小金井の母堂の友人О家で見合の運びとなった。
 太宰はО家の座敷に通るや床の間の書の軸を「いいですね」と言って、しばらく立って見ていた。第三者だから、余裕十分である。S子さんは秋田八丈の袷に、紫地の小紋の羽織を重ねていた。
 塩月さんは見合の帰りに、三鷹に寄って、S子さんの体格がよすぎることを理由に、この話は断りたいと言って、大変落胆のていであった。
 S子さんの方は、塩月さんがおとなしい人柄に見えて好感を持ったのだが、母堂が、「芳兵衛物語」という映画を観て、小説家は結婚相手として好ましくないという意見を出して、この縁談は不成立に終った。これは母堂がS子さんを傷つけまいとして、そのようにとりなされたのだと思う。S子さんの方が塩月さんよりも数センチ背が高かった。
塩月さんは、その後北京に渡り、昭和十八年の四月、紹介者はМ氏であるが、仲人役は太宰がつとめて結婚した。「佳日」は、この結婚を題材にしている。
 S子さんに太宰という一作家のことを知らせ、読ませたのは従兄のG氏である。G氏とS子さんとは太宰の著書(昭和十二年以前の)を共に読み、熱心に太宰について語り合った。おふたりとも太宰の初期の愛読者であったわけである。塩月さんとの縁談の前であるがG氏がS子さんに結婚の申込をした。母堂はG氏が酒のみで品行必ずしも方正とは言えないという理由で反対され、S子さんはその後太宰とも文学とも全く無縁の人と結婚した。

 1943年(昭和18年)4月29日に目黒雅叙園で行われ、太宰の小説佳日の題材になった塩月の結婚式については、4月28日の記事で紹介しました。

 一方、有明淑は、1942年(昭和17年)に、亡父の親友の息子・有坂恭三と結婚しました。恭三は軍医で、同年の満州赴任に淑は同行。満州で長男が誕生し、終戦後に夫を満州に残して実家に戻るも、渡航中に長男が亡くなるという不幸に見舞われたそうです。
 1946年(昭和21年)。淑は、満州から引き揚げた恭三と、秋田県大曲市(現在の大仙市)に転居。2年後に次男が生まれて、平穏な日々を送るも、1958年(昭和33年)に恭三が亡くなったため、次男と一緒に実家に帰省。キリスト教に改宗し、教会に通いながら、保険会社に勤務して、シングルマザーとして子供を育て上げたそうです。
 淑は、生家に近い東京都練馬区豊島園で晩年を過ごし、1981年(昭和56年)に亡くなりました。葬儀は、池袋西教会で行われたそうです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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